【岩手県平泉町】みちのくひとり旅5日目 義経最期の義経堂 23.11.21_12:45
金鶏山から、藤原氏の時代には多分なかったであろう鉄道を越え、北上川の川沿いの小高い丘の上に高舘義経堂がある。
奥州藤原氏にとっては永遠の厄介者判官義経の館があった場所。
北上川に削られて今はかなり小さくなっているが、元は広大な高台の丘で目と鼻の先にある柳之御所の要害地として存在していたそう。
中尊寺の山と高舘、北上川に挟まれた細い間に街道が通り、確かにここの高台は北に向けては要害だったろう。
そんな場所に鎌倉を追い出された頼朝の弟義経を匿う。
これから来るであろう坂東武者の襲撃への備えとしたことになっているが、だったら稀代の戦上手には盾にするために柳之御所の南側に屋敷を与えるはずでは?
それとも、やはりどこか信用していなかったのだろうか?
結果、義経は頼朝が率いる坂東武者ではなく、秀衡の息子泰衡の裏切りにあい、この地で妻子とともに自害。弁慶は立ち往生。
なので、頼朝襲撃時は何の役にも立たなかった。
なんだか理屈に合わないけれど、これは現地を見たものしか感じないこと。
江戸時代に現地を見た忍者の俳句詠みはどう思っただろう?
義経をヒーローにしておきたい人々にとっては不具合な真実だ。
今となっては、小さく小高い高舘の丘の上に仙台藩四代藩主綱村が建てた義経堂があり、芭蕉はここで兵どもが夢の跡の句を詠んだ事になっている。
確かに、眼下を流れる北上川の流れは雄大でなにか一句詠みたくなる気もわかるけれど・・・
兵どもを思うには牧歌的すぎるし、能や歌舞伎の義経ものは創作が多すぎる。
兵どもの夢がただの権力争いだったとなると・・・それも、やっぱり都合が悪かろう。
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