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経験13年・ブランク20年。打楽器を始めてやめて再開するまでのお話・その2 - Play Snare-Drum! -

その1はこちら

まず、前回はブランク期間を間違えて計算してました。18年じゃねーだろと。もう加齢で衰えて四則演算が出来なくなったのかな?と思ったのですが、中学時代の数学のテストで途中計算までは完ぺきだったものの最後に「3+3=7」とやってしまい満点を逃したという伝説をやっているので、衰えじゃなくて基本能力ですね。はい。

さて、中学は中高一貫型のマーチングバンド強豪校に進学することになり、そこで6年間、正確には5年と9か月マーチングバンド部員として活動することになりました。

その強豪校がどこかであるかは、マーチングを知ってる方ならあっさり特定できるので公開します。

・1990年代の強豪校
・中高一貫型(カテゴリは高校側)
・横浜市から通える範囲にある
・女子校ではない

この時点で一校しかありません。

そうです、関東学院中学校高等学校のマーチングバンドです。
近年は湘南台高校吹奏楽部の後塵を拝するようになってしまいましたが、1990年代はまだ未登場。
神奈川県内では「鎌倉女子大学付属中高」と共に毎年全国大会で金賞やそれ以上の賞を取る2強として知られ、日枝小時代は何度もこの2校のビデオを高橋先生に見させられ「お前らもこういうレベルを目指せ」と何度もハッパをかけてもらってました。

で、関東学院のスネアドラムに憧れ、そこに進学することになりました。
憧れの半分は「もうバスドラムは嫌だ」という現状打破希望だったり、実は受験の志望度では「滑り止め」だったりしましたけどね。
ただ私の母親も母方の祖父も関東学院中・高出身で、気づいたら親子三代で関東学院の門をたたくことになりました。
滑り止めとは言え、関東学院に行くのは運命だったのでしょう。

誰かが昔の動画をアップしてくださっていたので紹介しておきます。こういうところです。これ、私が中1の時の全国大会かな。私は後ろの衝立係だったはず。

さて入部後。
最初は中学1年生なのでちやほやされました。その後来ることになる地獄を知らずに。毎日夕方5時には練習を切り上げさせられて帰らされる生活が続きました。当然、先輩方はその後も練習を続けます。

練習環境は、当時日本最高峰と言えるものでした。
管楽器は一部除いて部員(の親御さん)に買ってもらってたみたいですが、打楽器に関してはヤマハ楽器がバックについており、無償で最新の楽器が常にヤマハから提供される状況でした。叩くためのスティックやマレットは自分たちで買っていましたが、楽器調達には一切四苦八苦しませんでした。
指導者も、顧問兼指揮者兼音楽教師だった広岡徹也氏のほか、金管楽器・打楽器・ソングリーダー(チアリーダー)それぞれに専門の指導者(アシスタントディレクター(AD)と呼んでました)が居ました。

入部後最初の本番は、毎年11月3日の文化の日に行われる「かんらんさい」(文化祭)のコンサートでした。学校の制服を普通に身にまとって、中1の部員披露のために用意された曲でスネアドラムを担当。
これは部の伝統で、一緒に入部した同期の女子部員と一緒にスネアを叩きました。ただし譜面は吹奏楽レベルの簡単なもので、スネアも新人用に用意されているLUDWIGのベコベコの古い楽器。ヤマハの格好良いスネアを使って超速でリズムを奏でる先輩方とは差別化が図られてました。

その後、同期の人は鍵盤系(所謂PIT楽器)に配属され、私はスネアドラムへの道に進むことになります。

あっさりと「スネアドラム志望」がかなった瞬間でした。

1人でいろんな打楽器を担当する吹奏楽とは違い、マーチングの世界では、いったん何かの楽器に「配属」されたら、余程のことがない限りずっとその楽器を担当します。スネアの人はずっとスネア、マルチタムの人はずっとマルチ、シンバル担当の人はずっとシンバル・・・と言った感じで。
PIT楽器を担当することになった同期の人もずっとほぼPIT担当でしたし、私もスネア以外は演出の都合で単発的にマルチタムとペアシンバルとなぜか和太鼓をちょっとだけかじった程度です。

だいぶ後で先輩から言われましたが、「お前にスネア適性があったからスネア担当にした」のだそうです。こればかりは先輩の判断に感謝していますw。私の生涯のトレードマークが出来たのですから。

(2019/1/28追記)この件は、広岡先生の強い意向もあったようです。最近知ったのですが、日枝小時代「あべくんが関東学院に来たらスネアやってもらいます」と広岡先生は発言していたそうです。直接は聞いてないけどね。

で、スネア志望が叶ったのは良かったものの、ここから地獄が始まることになります。

まずは、レギュラーグリップ(トラディショナルグリップ)の習得。左手のスティックをジャズドラマーのように親指と人差し指で支え、薬指を添えて叩く奏法です。この奏法が出来る人は近年はだいぶ減っているみたいなのですが、もともと大昔の軍楽隊の世界で編み出された奏法であり、1990年代のマーチングスネアドラマーは、ほとんどがレギュラーグリップ使いだった印象です。当時はこの奏法が身に着けられないとスネア適性が無いとみなされ、他の楽器に回されるようなご時世でした。

レギュラーグリップの特訓はマジで辛かったです。親指と人差し指の間の皮と、薬指の爪の根元付近の皮が剥ける→痛む→我慢して練習→また剥ける→痛む→以下略・・・のループを繰り返してました。しかもスティックの太さがコンサートスネアのそれの倍あるので痛みも倍増。痛みの不安がなくなるまで半年くらいかかった記憶があります。

今でこそ20年のブランクなんか知るか!レベルで平気でレギュラーグリップでここまでできますが(最後は結構崩れかけているけど)、その礎は中1の冬から半年かけて築いたものです。数か月前にどっかの女芸人達がマーチングスネアにレギュラーグリップで挑戦して見事撃沈した某バラエティ番組を見ましたが、レギュラーグリップは数日~数週間の特訓で身に付く代物ではありません!数か月単位の特訓でようやくマスターできるものなのです。

レギュラーグリップを習得した後に訪れたもう1つの地獄は、「体育会系のスパルタ教育」でした。

甘やかされた中1時代が終わり、中2に進級すると先輩達からの扱われ方が根本的に変わりました。中2から、マーチングの大会だけでなく、定期演奏会、国際仮装行列、その他どこかに呼ばれて演奏するイベント・・・などなどを先輩方と一緒にこなしていくことになるのですが、その「本番出場メンバー」としては一番下っ端。先輩方の楽器を準備するのが遅い、ちょっと間違える、叩くタイミングが0.0コンマ何秒単位でずれる(いわゆる「粒が合わない」状態)、左手が右手に比べて振りが弱い、ドリルの動きがずれる、という度に・・・

中2の時はまったく成長感を感じられないまま苦しみました。私自身もいわゆる「生活面でだらしがない人」であり、部活後に家で自主練習するタイプでもなかったため(ここがコツコツ型だった実弟とは大きく異なるところ)、先輩方からの評価ははっきり言って最低クラス。「お前は小学校では上位クラスだったかも知れないが、この関東学院の中では下の下だ!」とまで言われたこともあります。

これ以上詳細を記すのは自重しますが、現代だったら確実に関東学院という学校法人全体が炎上するスパルタ、いやパワハラ事案が毎日繰り広げられる中、なんとか耐え続けました。せっかく入部しても中2までに半分以上が辞めてしまう部活なのですが、生き残ることだけはできました。

ただ、耐えた代償として「常にどこか冷めていて、物事を斜めかつネガティブに見がち」な人格も手に入れてしまいましたがね・・・。「自分がやられて嫌なことは他の人にしないようにしよう」というポリシーが今の私にはあるのですが、このポリシーも関東学院の中2時代に培われました。理想的な培われ方ではなかったですけどね。

地獄の中2時代を過ぎ、中3になると「なんとか出来てきたかな?」と少しずつ思えるようになりました。ただまだ周りからの期待に応えられるレベルにあったとは言えず、同年度の大会で先輩方を差し置いてマリンバソロを任せられた同期の人よりは一歩も二歩も劣る、という評価を受けてました。

私が周りから認めてもらえたのは、高校に進学してからでした。

たぶんつづく。

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