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経験13年・ブランク20年。打楽器を始めてやめて再開するまでのお話・その7 - 1st Career Finished. -

その6はこちら。

このnoteで触れている「sutwind」は、「東京理科大学Ⅰ部体育局吹奏楽部」のことです。今は神楽坂のほうにもインカレ式吹奏楽部があるのですが、私の在学中はまだなかったです。在学中、神楽坂メンバーを増やそうと同期の神楽坂メンバーとちょくちょく動いてましたが、距離の壁は大きく2つ下の世代でようやく数名連れてくるのが精いっぱいでした。

1.左手タンバリン

さて、大学2年になると、経験者が一気に3名も入ってきたため、私の負荷は1年次に比べると格段に軽くなりました。鍵盤楽器を担当することはほとんどなくなり、本来の得意分野であるバッテリーパーカッションと、手が動くことを生かしてティンパニを担う機会が中心になっていきます。

距離の壁があった(野田校舎所属部員よりも練習参加回数が少ない)こともあり曲に参加しない機会もぽつぽつ出て、例えば吹奏楽コンクールは、2年次は自由曲は出番なし、3年次は課題曲が出番なし、でした。

つまり特別扱いされなくなったわけですが、それで当たり前なのです。スキルがバッテリー系に特化しすぎていて、案外使いどころがないプレイヤーであったので・・・。

2年の定期演奏会では、第1部のメインで「Puszta」という曲をやることになりました。吹奏楽の世界では割と人気が高い曲で、皮つきタンバリンがリズム担当となります。この動画が一番分かりやすいかな。

この曲では、最初は私がタンバリン担当となって何度か合奏をやっていました。が、この演奏会で引退する1つ上のS先輩が「私、最後だからタンバリンやりたい」と言い出します。

パート交換にはちょっと嫌な思い出がありました。高2のM協全国大会でリードカスタネットをやった時、1つ上のスネア担当の先輩が演出の都合で1曲目だけティンパニに回っていたのですが、「ティンパニつまらないから交換して欲しい」と言い出してました。当時は広岡先生の鶴の一声でそのままのパート割となったのですが、これが遺恨となって、悲劇の引き金を引いていきます(進路について最初に注文つけてきたのがこの人でした)。

ただ当時と違うのは、私にはまだ少なくとも1年残っていたことでした。

また前々回で少しだけ触れましたが、S先輩は一番最初に私の事を受け入れてくださった方の1人で、強い恩がありました。この方に華を持たせたいと私は思い、私とS先輩がパートを交換することになり、私はトライアングルやサスペンドシンバルと言った「その他小物系」に下りました。

ただし、「やる上はしっかりやってね!」と。

皮つきタンバリンの奏法で「親指を皮に滑らせるロール」があり、Pusztaはこの奏法が1・3・4楽章で頻繁に出てきます。しかし、S先輩は子供の頃に何かの事故で右手親指の指紋を喪失しており、その影響で右手ではこのロールがどうしても出来ずに行き詰っていました。

それに引きずられる形でリズムも崩れがちになり、合奏の度に管楽器の人達から「なんであべちゃんがタンバリンじゃないんだ」「最初のパート割に戻して欲しい」という類の苦情が出ていました。S先輩は打楽器のパートリーダーでもありその批判を真っ先に受ける立場でもあったため、かなり辛そうにしていました。

そこで、「(指紋がある)左手でやってみたら?」とS先輩に提案します。

利き手ではない手で叩くことに対してS先輩は最初はかなり不安そうにしてましたが、私自身もタンバリンのロール奏法は大学に入ってから覚えたので出発点は2人とも同じだったことと、私が「右でも左でも同じように演奏できる」スキルを有していたことが説得力を持ちました。

具体的には何度か左手で演奏する手本を見せただけですが、これでS先輩は「私にもできそう」と思ったようでやる気が戻り、しばらくしてから「あべちゃん、私もここまで出来るようになったよ!」と嬉しそうに言ってくるようになりました。そして本番では見事左手でタンバリンをやり切りました。

惜しむらくは、この時私もタンバリンの譜面を覚えたのに、いまだに本番で一度もやっていないという・・・(苦笑)。

2.「シンバルの音程」事件

1年の時は研究対象にされたり女子に間違えられたりとネタ満載でしたが、2年の時も1つ忘れられないハプニングがありました。

ある日、同期の「シンバル君」ことY君が、コンクールの課題曲の練習で、またシンバルを担当していました。その日の合奏では、管楽器の音程がいまいち合わず、指揮の先生(小林幸人氏)が何度も「ちょっと音程がおかしくないか?」とぼやいていました。

その少し後、Y君のシンバルの演奏タイミングがちょっとずれた局面がありました。今度は、小林先生がY君に「ちょっとシンバルおかしくないか?」と言いました。

それに対する、Y君の答えが・・

「え、音程ですか?」

し、シンバルに、音程なんかあるわけねーだろおおおおお!!!

私以外の人達は全員大爆笑。その一方で、私はスネアスティックでY君を「あほかーっ!」と軽く叩いた後、 あまりのショックでその場にしばらくへたりこんでしまいました。 

その日は、家に帰って寝るまで、私は 「あれだけ一生懸命教えたのに・・・教育をどこで間違えたんだ・・・」と自責の念に駆られた事は言うまでもありません。やっぱり指導するのは下手くそなままでしたね(泣)

打楽器にも音程の概念はあることはあり、Drumsだけで音程を奏でるネタ動画も存在はしていますが、まさかシンバルで言い出すとは・・・。

なお、Y君のシンバルは私より全然上手かったことをご本人の名誉のために付記しておきます。「シンバル君」と呼ばれ続けたのは、彼のペアシンバル適性が高かったことも意味しています。仮にダメな人だったら途中であだ名は変わってたでしょう。

3.受け入れた文化と拒絶した文化

吹奏楽に鞍替え後、スネアドラム以外の演奏レベルはそれほどでもなかったけど、ティンパニに関しては目に見えて上達できた感があります。

1年の時に「粒が出過ぎる」と指摘されてからいろいろ試行錯誤していました。手を横にしてみたり、マレットを極端に長く持ってみたり…結局はマーチングスネアのシングルストロークを「少し浮かせる」「腕も振る」という感じにすれば人並みになれることに2年かけて気づきます。

1年次と3年次の姿を比較してみます。左は某女子大エキストラの時ですが、手を横に向けていました。右の3年次定期演奏会ではそれをやめて、普通のシングルストロークのようにやってます。

・・・画質が粗すぎてわけわからなくなってるねこれ(--;

そうして1年の時は汚かったロールもそれなりに出来るようになり、3年次のコンクールでは自由曲の「スキタイ組曲(第二楽章)」でティンパニを任されるまでになりました。ちなみにこんな曲です。

まあこの曲は打数が多いので単純に私向きだった説もありますがね。

このように、シンフォニックの世界でやっていくために、そちらの文化を少しずつ取り入れていったのですが、2つだけ拒絶したものがあります。

①.スティック・マレットから小指を離す

プロも含めてこうやってる人を結構見るのですが、小指が立ってるようにしか見えません。「小指を立てる」ことの一般的な意味がなんたるかはここでは割愛しますが、なんで平気でそんな状態で演奏できるのでしょう。さすがに海外の奏者でこんなことしてる人は見たことないので、日本だけのガラパゴスですかねこれ。小指が離れている演奏姿を見るとゲンナリします。

②.叩いた後に不自然にスティック・マレットを跳ね上げる

大して音量出てないのに「叩いたよ」とアピールするためにスティックやマレットを跳ね上げるシーンを時々見ます。人によっては「20cm振りかぶって1m跳ね上げる」というめちゃくちゃアンバランスなことをやる人もいます。で、綺麗な音や繊細な演奏が出来てるのかと言うとそうでもない。そんなアピールに腐心するのなら叩くまでのアクションに腐心しろと思います。

小中高と「アクションを含めて見られる」世界で生きてきた人として、この2点だけは誰に何と言われようが拒絶しました。みっともないと思ったから。私は根がアーティストじゃなくてパフォーマーなんでしょうね。

4.やり切った感

一方、スネアドラムに関しては何処に行っても一目置かれました。

某女子大については前回記載の通りですが、その後、確か大学2年の時だったかな?プロの打楽器奏者の方のレッスンを受けた時に「バズ(クローズド)ロールは、プロでも君のレベルまで出来る人は少ない」と評された場面がありました。実際、ロールで波を打ってしまうプロの奏者は多いし・・・。

また、大学3年時の終盤には、東京都吹奏楽連盟(この年から理科大吹奏楽部は東京都連盟に移籍)の合同演奏会にも出させていただきました。さすがに周りのレベルが違っていたので結構怖気付きましたが、中央大学や立正大学といった全国レベルの人達からも「君のスネアは素晴らしかった」と言っていただけました。

私のスネアドラムは、ジャンルを変えても通用できたのです。

高校時代までの貯金で食っていた感は拭えませんが、私なりにいろいろ試行錯誤はしてました。マーチング時代はご法度とされていた「手の中でスティックを浮かす」ことがシンフォニックの世界では求められるのでまずはそれを憶え、曲調によって強く叩くこともあれば、「ダッタン人~」のように神経張り詰めて繊細にやったり、思いっきり引っぱたきたい時はそれに向いている「マッチドグリップ」に曲の途中で持ち替えたり、とか。

他の楽器だとあまり大したことないのに、スネアを触らせると豹変するようになってました。

それでも吹奏楽では異色のスタイルではあったので、sutwind内部からは「ポップスになりがち」とか「思い切りが良い」とかの微妙な評価も一緒に受けてました。まあバックボーンがアレなので仕方ないか。

そんなことがありながら、大学1~3年までの3年間と、修士課程進学後の半年間、楽しく打楽器をやらせてもらいました。

高校までバッテリー系しかやっていなかった人が、ティンパニや鍵盤楽器を初めとしたいろいろな楽器を担当させていただき、コースタイルのスネアドラマーから「打楽器奏者」に少しだけクラスチェンジできたかなと。

でも、ヘルプで入った最後(修士1年次)の定期演奏会の頃には、「もう楽器はいいかな」という思いが私の中を占めるようになりました。

高3の時のように特段嫌なことがあったわけではありません。もう世の中にある打楽器はだいたい触って「やり切った感」があったし、この後社会人になっていくのだから、そろそろ一区切りを、と思いまして。

小4の鼓笛隊入団から数えて14年、経験年数にして13年を積み上げた私の打楽器屋人生は、1998年の12月にいったん幕切れとなります。

もう少しだけ続きます。次回は、諸事情によりお盆明けを予定。

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