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完璧な欠落といびつさが欲しい

人間の魅力が欠落、いびつなところにあるというならわたしはどうなのだろうか。凡庸ないびつさばかりでその辺にいる妖怪と大差ないのではないかなど思ってしまう。

人に話してこなかったが、わたしは幼少期から特に小学一年生から、新しい環境に身を置くと平気で他人に嘘を吐く癖があった。大きな嘘をひとつ吐いて、そのあとにちいさな嘘を重ねて辻褄合わせをしていくことが多かった。新しい環境に置かれた自分は自分の思う、もしくは他人が自分に期待する自分を演じて嘘を吐くことで自分ではない自分で在り続けることが快感であり、安心であり、環境が変わるごとに違う自分になれるというゲーム感覚もあった。
この癖はどう考えても母親に起因するのだけど、母親も含め他人はこんなにも簡単に人を信じるのかと勝手に失望していた。そんなふうに育ったわたしは思春期になると家庭環境が劣悪になっていったのもあり、こんな人間ばかりじゃないはずとインターネットに手を出し見ず知らずの他人に期待して信じようとしてみるがクソみたいな大人や学生ばかりだった。そのなかで家族ごっこのようにお兄ちゃんと呼べる存在をいくつかつくるものの、所詮下心しかない人間ばかりでまた適当な嘘を吐くのがうまくなっただけだった。
そんなことあってはじめて夢野久作の少女地獄を読んだときは姫草ユリ子に感銘を受けた。理想的な美しいこの世からの退場の仕方だと思った。そして合法的に自分ではない何かになれる、それを仕事や趣味としている演者に今も昔も憧れる。3歳の頃から11年間もバレエが続いたのはそのおかげだったのかもしれない、自分ではない何かになってそれを表現する為に踊ることが大好きだった。辞めずに続ければよかったと今でも後悔していることのひとつ。
今はもう嘘を吐くことはほぼなくなったが、その名残りなのか延長線なのか今でも平気で適当なことを言って相槌を打ったり、知ってるのに知らないふりして相手に話させたりすることがある。

はて、これがわたしの魅力なのだろうか。

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