レッスン2日目

標題はゴルフレッスンの2回目を受けてきたことを記すだけの意味になります。90分間打ってきました。右手の親指、グリップする側の皮膚がずる剥けです。で、何か、読まれるに値するような内容を想定して書き始めておりません。いつものように、なんとなく頭に浮かぶことを記していきます。

『サンデーソングブック』が先週話題になっており、それに続く一昨日の放送も注目されていました。私はずっとこの番組を録音していますが、後追いで聴いていますので、なんとまだ3月分の2週目というあたりで、このところの放送回をリビューするのは来年になるかもしれません…。とはいえ、世間的な関心事として、先週語られた内容については文字おこしがネットに載っており、それは読みました。直近の放送では、その件についても、その後の反響についても、ひと言もなかったことをネット記事で知りました。

音楽で飯を食っている人々は、特に裕福な方々を指して「アーティスト」と呼ばれ、その称号を与えられるなり、日本においては聖人君子であることを望まれるようです。成功者は憧れの対象として、非の打ち所のない人格を表に示し、その期待を決して裏切ってはいけない、という不文律があるようなのです。

今は昔、レコード(CDでもいいですが)を、音楽コンテンツを収めた商品として世へ送り出した結果、人口の数%をカバーするほどのバカ売れとなれば、売り上げのみならずコンテンツの2次使用によって巨額の著作権料をも収益にでき、その規模は単一アーティストの貢献によってすら都内の一等地にスタジオを建立させ、レコード会社の本社機能を移転させるほどの破壊力でした。

そこまでではなくても、一人の人物のペンによって楽曲が産まれ、結果継続してそれがヒットするならば、その作品力によって、作家の家計だけでなく、関係する数十名、数百名の生活が支えられることになります。アーティストとは、そうしてアリやハチの女王のように群れの中心にあって、下々を抱え、食ませる役を担うことになります。

しかしそれは、私は偶然の産物と思います。このような「頂点」に自身を置きたくて、その策略の一部に音楽コンテンツの制作を選ぶ人もいるかもしれませんが、まぁ私の育ったような世代の感覚においては、好きでやっていたらたまたまそうなった、というようなのが大半だろうと感じます。若い頃からマニアックに求道的で、その研究の成果として楽曲を生み出すことができる上に、声がいいとか(見た目がいいとか)、楽器の腕前が独特であるとか、の非凡さが注目を集める中、時運的なスパークがあるとそうしたことが起きます。トータルで「才能」かな、と思います。

これらの人々の意識について、そうでない私たちは想像するほかないのですが、好きなことをやり続けられる喜びを得られつつも、経済的な大きな渦の真ん中に置かれることへの戸惑いが背反的に同居するものではないかと、これもステレオタイプな見方ではありますが、最初に浮かぶイメージです。

それまで市井の人だったところへ訪れた希有なビッグチャンスが、その人格へ悪しき作用を施すのを、自身が懸命に打ち払おうとする時、やはり作品制作へ向かうことしかないのではなかろうか、と思います。良心というものが発揮できる場所があるとするならば、それは自作の中で嘘が無い、というただ一点になります。抽象的な言いようですが。こうしたことはやってみた人でなければわからない。わかったような口をきく自分は、ともすれば怪しいですが、シンプルにそういう世界観で生きています。

私はだから、山下氏が発言の〆に話した「きっとそういう方々には私の音楽は不要でしょう」というところを捉えて、ファンを裏切る失言だったと指摘する考察を行う記事を受け入れられません。音楽を作って発表する主体にとって、大事なのはその音楽そのものでしかないためです。その姿勢を架空の社会規範に照らして批判できる資格が誰にあるのかと考えるのが私の主張です。炎上の分析記事こそが本当に鬱陶しい。

ちなみに喜多川氏とは、私個人も接点があり、育成中のタレントにベースを教えていた時期があります(ジャニーズ事務所以外の方へも)。90年代であり、私自身まるで社会性が乏しかったために、音楽ジャーナリストである友人に、直々にいただいた名詞を渡してしまうという失態を犯しています。ジャニーさんの人となりの印象は、オープンで話しやすく、私のような無名ミュージシャンでも蔑む様子はなく、対等なビジネスの話をしてくれました。所属のまだ幼さの残るタレントが「お父さん」と呼んでいたことが思い出されますが、それだけでは裏で何があったかまでは知る由もありません。部外者が、山下氏も知らなかったはずはない、などと述べる記事も相当に気持ち悪い。


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