まさゆめ、の意外な反応

7/16に代々木公園で3人組の現代アート集団「目」の作品が展示された。

当日、翌日はさまざまなところでニュースとして取り上げられ、2年前から楽しみにしていた私は、あぁついにこの日が来たと心躍らせた。

上げられた顔を見て、おぉこの顔にしたのかぁ、とどことなく意外な気もしつつ、これは実物を見ないことには、と思い、いそいそと出かけて行った。結局、上げてる時間には立ち合うことなかったのだけれど。


自宅に戻ってからもニマニマしながらこのニュースを見ていたら、コメント欄がかなり荒れている。怖い、気持ち悪い、トラウマになる、パクリ、これだからオリンピックは、これだから現代アートは、などなど。肯定的な意見はほとんど見られなかった。

それを見て、まぁ確かに怖いよな、よくわからんよな、現代アート苦手だったら余計に拒否反応しちゃうかもなと思った。なぜならば2年前の私がまさにそうだったから。

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まさゆめや目に関心持ったのは、彼らが出ていたトークイベントだった。そこでは今回と同様のプロジェクトを宇都宮で開催した時の様子が語られた。

作品を見た時、は?と思った。現代アート、よくわっかんねーなー、くらいに心の中で毒づいた。

けれど、その過程を聞くうちに、そして想いを聞くうちに、印象がガラッと変わって、目やまさゆめの虜になっていた。

顔収集ワークショップ にたくさんの市民が携わったこと(それもキャラバンだったり、商店街の店舗だったり策もさまざま)、集まった顔の中からどの顔を浮かべるべきか市民みんなで議論したこと、当日はやはり泣き出す子供も続出したけれど、おばあさん2人が顔を見ながら橋の反対方向から歩いてきて、中央で落ち合ったころには抱き合ってなぜか泣いてたこと。

東京での開催も、今回と同じようなプロセスが辿られている。集まった顔の数も、会議の人数も宇都宮を超えていた。顔収集は商業施設の中で、広く公開されて募っていた。

つまり、これはアーティストや都によるブラックボックスの中での作品ではなく、関わったたくさんの一般市民で作り上げた作品なのである。(ただし、都民全員とかではないのだけど)

ただ、このプロセスは見落とされた。記事の中で触れていたとこもあるが、コンセプトの方が耳目を集め、叩く要素に使われた。

叩く側は、パッと見た印象で批判をしているようだった。なぜそう思うかの掘り下げはしていない。そして時々あったのが「これで作者が何を言おうとしているのかわからない」。このあたり、学校教育の弊害や、早さを要求するビジネスの現場での育成が如実に表れている。(「5秒沈黙したら、その会議ではあなたの価値はないと思え」と1年目で言われた。当時はビビったけれど、いまは「そういう現場もあるけど、いつもそうとは限らない」と思うので、ビビることはもうない)

答えは外にあること、自分がどう思うかは二の次とされてきたこと、瞬時に答えを出すこと。そうした教育・育成が、自己肯定感の抑制をもたらしたと思う。

そして、背景を知る前に叩いてしまうことで、そのつもりはなくても結果的にそこに携わった一般市民のことも叩いてしまったとも言える。この点については、メディア側や主催者(アーツカウンシルトーキョー)にも落ち度があるように思う。この作品の目的と、このニュースをどう受け止められるかを鑑みた場合の、バランスの良い報道をどれだけ試みたのか。あるマンガのタイトルで吊るような見せ方は、本来の作品の意図から大きく外れている。それとも炎上マーケティングを狙ったのか。(でもこの批判も、報道現場を知らずに書いてるから、想定外に人を傷つけたかな。メディアの会社にはいたことあるけど、報道ではなかったから、違ったらごめんなさい)

総論として、今回の企画は日本人の思考を試される機会だったと思う。そしてその成果は、このままだと息苦しい世の中が待ってる、という悲壮感を含むざわざわするものだった。それでも、事実を調べ、一歩踏み込んで洞察することで、心の安寧は保つことはできうる。

そんなことを考えさせてくれるから、
やっぱり目が好き。

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