見出し画像

「あなたの大切な友人にも、同じものを送れますか?」

僕の親は転勤が多く、僕は合計三つの幼稚園に通った。幼稚園もところによって文化や風習がかなり違っていて、僕の通った幼稚園の一つ、カトリック系の園は宗教行事に力を入れていた。お祈りの時間があったり、大きなホールで神話を再現する劇をやらされたり、卒園時にこども向けの聖書が配られたりした。

「めぐまれない子供たちに服や玩具を送りましょう」

これもキリスト教の喜捨文化の一環で、毎年、園内でそんな感じのキャンペーンが行われていたらしい。「らしい」と伝聞体なのは、遠い昔の記憶すぎて僕がほとんど覚えていないからだ。だからこれから書くことは全て僕の母親から聞いた話である。

別に僕も僕の両親もキリスト教徒ではないのだが、「困ってる人に手を差し伸べるのはよいことだ」という感じであまり深く考えずにキャンペーンに参加した。家で何かしらのものをかき集めて、ダンボールに詰めて園に持って行った。後日、園長先生(シスター服を着ているお婆ちゃん)は静かにプリプリ怒っていたそうだ。

園長先生は保護者に向かって説教した。

「みなさんが家から持ってきたものは、いらなくなった洋服や、遊ばなくなった玩具ばかりでした。いちど胸に手を当てて、考えてみてください。あなたの大切な友人にも、同じものを送れますか?」

僕はASDなので「送れます」と即答してしまうかもしれない。
これだけ聞いて、園長先生が言わんとすることにピンとくる人は少数派ではないだろうか。僕の母も当時はピンときていなかった。

園長先生の言葉を僕なりに補足しよう。つまり、このキャンペーンの真意は、他者を助けるために自分の身を切ることにあったのだ。少なくとも一つくらい自分のお気に入りの玩具を送ろうとする。そのぐらいの覚悟は必要だった。いらないものや、捨てても惜しくないもの、ゴミやガラクタを誰かに押し付けるキャンペーンではなかったのだ! 誰かを想って身を削る覚悟、自己犠牲の精神……園長先生は僕たちにアンパンマンの気持ちを感じてほしかったのだ!!

「ゴミを押し付けられる相手の身になってみてください。惨めな気持ちになりませんか。悲しい気持ちになりませんか。あなたたちには相手を思いやる気持ちはあっても、相手へのリスペクトが欠けている!」

なるほどね。

僕の母も他の保護者も「なるほどなぁ。次からは気をつけよう」と思いましたとさ。

しかし、僕はちょっと反論したくなる。

いやいや園長先生。そんなこと言ったって、ガラクタでも無いよりはマシって場合もありますやんか。いらないなら受け取らなければいいだけの話だし、あって困ることはないでしょう。……困る? まあ、確かにね。いらないのに必要以上の量の古着を押し付けられて、街じゅうが古着まみれになってる発展途上国の様子を僕もニュースで見たことがあります。話によると僕のお母さんは熱帯の国に冬服を送りつけようとしていたみたいで、それは確かにありがた迷惑以外の何物でもない。ありがた迷惑にならないように、相手の必要/不必要を知ること、相手のニーズに合わせるのって大事ですよね。

でもそれは我々が浅慮、あるいは知識がなかったという話であって、我々の心を疑うような口ぶりはどうかと思いますよ。無知であることと、相手へのリスペクトの有無は別の話ではないでしょうか。

思想の違いもある気がするのだ。
目の前の問題を解決することに重きを置くのか、他者を尊重する心の在り方に重きを置くのか。

長い目で見たら、他者へのリスペクトの気持ちを育むことが問題解決につながるのかもしれないけれど。短い目で見たら、実利的な観点でみるなら、みんなの家から持ち寄ったいらないものを回収したあと、送って喜ばれるものとそうでないものを篩い分けるのがいい。そのほうがいいものが集まりやすいのではないか。

人間って自分が損することにはなかなか手が出せないものだし、あんまり厳しくし過ぎたら参加者が減ると思う。インセンティブを考えるのも大事だ。そうでなくとも毎回毎回身を削っていたら喜捨文化の持続可能性がなくなっちゃう。園に集まったものに、要らなくなった服や遊ばなくなった玩具が多かったというのも、みんなができる範囲で、できるだけのことをしようと考えた結果ではないだろうか。

欧米人も同じ過ちをしでかすのだろうか? 日本的な価値観も原因にある気がする。「もったいない文化」とでも言おうか。「もったいない文化」と園長先生の思想は食い合わせが悪い気がする。

もったいない精神があると、捨ててしまうものを有効活用しようとする。僕にとってのガラクタが、他の誰かにとってもガラクタだとは限らないだろうと考える。だって、僕にとって「いらないもの」が他の誰かにとっては「喉から手が出るほどほしいもの」になることもあり得るではないか! 僕はいらないものを処分できて嬉しい。相手はほしいものが得られてラッキー。これって素敵なことじゃない? これぞエコ。エコノミー、エコロジーってやつではないだろうか。そう考える。渡す方も、別に相手を乞食だなんだと見下しているわけではない(乞食が悪いわけではないが)。もらう方も「捨てちゃうの? じゃあもらっとくわ!」程度の感覚ではないのか。喜捨はオークションではないので、そう上手く利害が一致することばかりではないと僕も思うが、少なくともやってる本人たちには相手を尊重する意思がある。

それが通用するのは日本国内だけだよ、と園長先生は仰っているのかもしれない。わかる。異文化交流は難しい。僕はASDである。だからなのか知らないが、親切心から良かれと思ってした行為が、相手をめっちゃ怒らせたり傷つけたりすることがよくある。そして思うのだ。僕にとっての善が相手にとっての善とは限らない。逆も然り。僕にとっては悪意としか受け取れそうに無い行為が、実は相手の親切心からきたものであるかもしれないのだ。

例え話につきあってほしい。僕の友達にショウジョウバエくんがいたとする。ショウジョウバエくんは大好物のうんちを僕にご馳走してくれるが、僕にとっては嫌がらせでしかない。酷い目にあった僕はショウジョウバエくんに謝ってほしいと思うが、ショウジョウバエくんは僕に謝る必要はないと思っている。この場にあるのは不幸な行き違いであって、お互いに善意しかないのだ。ひとつわかるのは、自分自身をものさしにして相手を測るのは失敗の元だということ。

僕が園長先生の説教に抱く違和感はここにある。自分にとっての善意と、相手がどう受け止めるかは別の話だし、善意があることと問題解決に有効かどうかも別の話だ。それらをいっしょくたにして僕らの感情に訴えかけてくるやり口はちょっといかがなものかと思う。

最近の被災地ボランティアの話にも通ずる。
良かれと思ってやったこと、結果的に良くはなかったこと。
「善意思」と「行為としての善」、そしてリスペクト。

うーむ。僕はもう少し考えたい。
みんなはどう思う?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?