Les beaux orages (qui nous étaient promis)

Festival d'Avignonに続き2度目の鑑賞。
https://vimeo.com/collectifpetittravers/lesbeauxoragesfilm

まずタイトルにある「雷雨」について、これがなにを意味するのかはわからなかった。雷鳴と稲妻は直接的に表されており、ボールの動きが雨に見えなくもないが、ではなぜ彼らは雷から逃げるのか。
また「約束された」という以上雷雨は最後の装置だと思っても、そこに雷雨らしき要素はない。

それ以外の点について考えよう。
まずあの装置以外の場面は全てあの装置を模したものだと考えていいだろう。最初の場面に代表されるボールの動きに始まり、椅子を置いて移動する人の動き、ボールの散らかりと回収など。全て揃っては離れ、また揃っていく。

しかしそうすると、途中で異様に始まるスポーツの場面は何なのか。全員が着替え、全く違う動きをし、まるでそれまでと同じ規則に則っているとは思えない。
スポーツの場面は独自のルールによって始まる。その内パスを繋げて相手陣にボールを投げ込む、バレーボールのようなスタイルに変わる。次いでラグビー、バスケの流れを経て、リフティングからのシュートとサッカーになる。その後またルールはわからなくなり、強制的に終わる。これらひとつひとつの時間は長くない。参加しない演者もおり、流動している。
つまりこの場面もまたあの装置の一面に過ぎないのだ。これまで動きによって示されていたこの作品の哲学が、規則によって表わされている。であるからこの場面はこの作品の哲学を見抜くにあたって欠かせない場面であることは間違いない。

ではその哲学とはなにか。
本作の要である装置に戻ろう。あれは初め美しい軌道を描き、崩れたように見せてまた揃う。これはそれぞれがそれぞれのリズムを保って運動しているからに他ならない。スポーツのように、あるひとつの規則によって人間を縛っているからではないのだ。
あの装置もまたスポーツのようにひとつの規則に基づいており、そのために全体がまとまるのではないか、と批判することもできよう。それはその通りである。本当に好き勝手に動いたのであれば無論美しい軌跡を描くことはない。ただここにおいてその規則はスポーツのようにただひとつのあり方を強制するものとしてあるのではなく、それぞれによって、ジャグリングの場面でいえば彼らの手によって生み出されている。 だからこそ彼らは一見して崩れてしまったようであっても元に戻ることができるのだ。
ここにあるのはわかりやすく言えば主客の違いである。本作の演者は主体的に動いている。彼らがボールに対して、引いては世界に対してどう行為していくか、というところから彼らの規則は導かれている。だからこそ作中で行われる行為は変化しながらもその規則は変わらない。しかしスポーツにおいてはまず規則を司る審判や敵があり、それに対する客体として遊び手がいる。その中では主体的にありえない以上、彼らは行為が変わる度に規則を変えざるを得ない。ここで行われているのはそういう対比であり、そのためにこの場面は強制的に終えられるのである。ただもちろんこれは対立してあるのではなく、スポーツを包含する形で主体的行為がある。
つまり彼らにとって規則とは行為の中にあるものなのだ。自分の投げるボール、自分自身の動きそのものが彼らの行動を決定付けている。それらの行為の根底に現れるリズムを前にしては、スポーツなどその中で流れ去るひとつの形態に過ぎない。そして本作はそのリズムによって成り立つ世界を体現しているのだ。

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