イリヤプラスカフェにおけるセルフサービスについて

浅草、蔵前、清澄白河など、下町では今カフェが増え続けている。今回はその中から代表してイリヤプラスカフェについて取り上げることとする。

ところでこれらのカフェだけではなく新しいカフェはそのほとんどがセルフサービスである。セルフカフェは店側としては経費削減となり、スターバックスを始めカフェの主流になっているのだから驚くことはない。
しかしここで主張されるのは、スターバックスで行われているセルフサービスとイリヤプラスで行われているセルフサービスが、同じ言葉で括られながら全く違う理念の下に行われているのではないかということだ。

ではその理念とはなにか。それは「居心地」である。居心地がカフェにとって重要なのは当然であろう。しかしそこからセルフサービスが引き出されるとはどういうことか。

ここでイリヤプラスが行っている思想の転回についてより明確にするために、セルフサービスとフルサービスのカフェを比較しよう。
フルサービスではより高い金額を支払う分、店員たちは我々のために働いてくれる。労働力を買っていると言ってもいい。対してセルフサービスはその金を惜しんで、その分自分が働いている。これが旧来の考え方である。
しかし居心地を中心とする考えでは、この対立の様相は全く違ってしまう。フルサービスを受けるということは、人間性と自由を奪われているということである。

水を例に考えよう。
フルサービスにおいて水は店員が注ぐものである。旧来の考えでは客は労働力を買っているのだから、これは当然であろう。
しかし我々の欲しいときに常に水が注がれているということは、常に我々の一挙一動を店員が見張っているのでなくては成立しない。しかも我々が水を欲しているか否かは見た目に表れないのであるから、このとき店員はただ水の有無を監視し注ぎ続ける機械、すなわち人間ではなく労働力としてある。そして店員から見て我々もまた、水を飲み続ける機械である。
またその監視から外れ水が注がれなかったとき、我々に許された行動はただ店員を呼ぶこと、もしくは来ない店員に対してあとで文句を言うことだけである。我々は我々の意志で水を注ぐことが許されていないのだから、我々は我々の居心地作りを店員に委託するしかない。
イリヤプラスのセルフサービスは、こういった問題を一挙に解決している。我々は飲みたいときに水を飲むことができ、店員と客は機械として見合うのではなくなる。むしろ居心地は店員と客の協力によってもたらされるのであるから、同じ空間を共有する仲間となる。

水を注ぐことが店員の業務であり責務であると信じているのでなければ、自分が欲しいときに水を注ぐという行為は全く大した作業ではない。むしろ以上のことを鑑みれば必須の権利と言っていいだろう。
しかしスターバックスではセルフサービスでありながら、結局我々にその権利を与えない。水を飲みたければ店員に頼まなければならないし、そこで貰える水はほんの小さな、申し訳程度の紙コップ分でしかない。そこがスターバックスが思想を転回していないと言える所以である。

主体性を捨てることなくなおかつ客であること、これがイリヤプラスにおけるセルフサービスによってもたらされる結果である。

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