Defracto "Flaque" 考察

JJF海外ゲストとして招致されたカンパニーDefractoの今回の作品"Flaque"は、一見して一貫性のあるようには思えない作品であった。
それぞれのシーン同士の繋がりは薄く、ジャグリング公演でありながらボールを持たずに床に寝て踊ったり、転けるふりをし続けたりと突飛なシーンも見られた。

しかし、それでありながらこの作品は見心地のよいシーンの詰め合わせを超えたものに見える。行為そのものは突飛でありながら、この作品を作品たらしめる、本質とも言うべき一貫性があるように見えた。
以下ではその一貫性を仮定し、諸場面の共通点を示していくことでその証明としたい。

仮定される本作の本質は、身体の主客両義性である。通常はジャグラーが主体、ボールが客体であり、純粋に支配する側とされる側しかない。しかしここではジャグラーの身体もまた客体である。いくつかの例を挙げよう。
ギヨームがエリックの頭を振り回しその腕でボールを投げさせる場面。ギヨームがエリックを操ることでボールが投げられている。
また初めにステージマネージャーのダヴィッドがボールを投げ入れる場面。ダヴィッドはボールを投げ入れる主体であるが、2人はダヴィッドへボールを投げ返す主体とはならずにただボールを跳ね返し続ける。
そしてジャグリングの最中にボールを取られて倒れこむ場面。ジャグリングをする主体であるはずだったジャグラーがボールを奪われることで物へと変えられてしまう。

つまり通常ジャグラーとボールが主客であるところ、ジャグラーの身体も客体としているのだ。

彼らの身体はボールと同様、動かされる「物」となる。そして「物」であるボールが操られることがジャグリングであるとするなら、自らの身体をボールと同等の「物」として手に入れた彼らに、果たしてボールは必要であろうか。
そう考えたとき、ボールを持たないシーンももはや突飛なものではなくなる。
歩く人間というのは主体でしかない。しかしその人間がつまづき宙に浮かぶその瞬間、彼らの身体は「物」になる。
ジャグリングの定義などという大きなものに今ここで挑む訳にはいかないが、彼らCie defractoのジャグリングという意味では、道具なしで見事に成立していると言える。
だからこそ彼らはダンスなどの技術に頼ることなく、ジャグリングのままでボールを手放すことができたのだ。

ただ確認しておかなければならないのは、彼らの身体はボールと同じ意味で客体なのではないということだ。
ここでボールはあくまでも操られるものであり他者を操りはしないが、彼らの身体は操るものでも操られるものでもありうる。
たとえばジャグラー2人が飛び跳ね、その反動で跳ね回る腕がボールを投げる場面。ここにおいては自分自身が動いているのでありながら、腕を好き勝手しなるに任せることでボールを投げる腕自体を客体化している。すなわち自己完結型の身体の客体化である。
そしてジャグリングをしているエリックにギヨームがスピーカーを向け続ける場面、ヘッドストールをして左右に動くエリックの動きを後ろでギヨームが真似する場面では、ボールや身体への直接的干渉こそないが、本来主体であるはずのジャグリングする身体を、音に動かされる、真似される客体として現している。これは一方による他方の客体化である。

では2人が2人のまま、つまりお互いを客体化するのではなく自己完結的に客体化しようとしたとき、どのような方法があるか。
もしボールが主体となりえ彼らとボール相互の関係が成り立つのであれば、それで関係は完結したであろう。しかしもしボールが主体となりえないのであれば、2人を客体化する他者が必要になる。
ここで意味を持つのがステージマネージャーのダヴィッドである。彼は舞台上にいながら演者でない立ち位置を取っている。舞台上の床には真ん中にテープで囲いがしてありその中が実質的な舞台として使われていたが、ダヴィッドはその外にいた。ダヴィッドは彼らにボールを投げ入れ、ライトを当て、水を飲ませようとする主体であった。
ジャグラーの2人がダヴィッドに対して客体となるよう仕向けたシーンがある。ダヴィッドが燕尾服を着て舞台に立ち、ギヨームとエリックが彼にボールを差し出すシーンだ。ギヨームはダヴィッドがボールの受け取りを拒否する度に差し出すボールの数を増やし、彼にジャグリングをさせたがっているように見える。しかし彼は受け取らない。エリックは彼の前でボールを勢いよくキャッチして見せ、その前のシーンでエリックとギヨームがやっていたように、ボールがキャッチされた瞬間に倒れるように促す。しかし彼は倒れない。その後ろでギヨームが倒れてしまう。
一人彼だけが演者全員に対して主体であることのできる舞台上の人間であり、それこそが彼がステージマネージャーでありながら舞台上にいた意味なのだ。彼がそこで客体に回ってしまうならその意味はぶれる。もはや彼は舞台上にありながら舞台の外部にいる人間ではなくなる。そうなれば今度はこの3人を客体化する他者がまた必要になってしまう。
脇からボールを延々投げ続ける2人にスピーカーやライトを当てるシーンなど、通常の音響と照明で問題なかったはずだ。しかし彼らには無機物が主体となる発想はなく、そして彼らが延々とボールを投げ続ける人々なのではなく同じ行為を繰り返すことでそういう機構なのだと錯覚的に見せるためにはライトやスピーカーを向けることで自分たちが客体であることを強調しなければならなかったために、それを持つ人間が必要であったのだ。
ボールがジャグラーに作用しうるならばそこで閉じたはずの円環が、ボールが完全な客体であることによって完全な主体たるダヴィッドを要求したのである。

以上で各シーンの考察を終える。


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