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なぜボクシングをするのか -その②-

高度な情報化社会が到来して以後、他者の心身を蝕む・攻撃するという意味で、実際的な問題の要素のひとつに "匿名性" があると思います。
まぁ・・・そんなもん、勝手に晒しとけや暇人、とも思いますが。

某巨大掲示板が隆盛を極め、それが今現在でも続いている状況に限定されるものではなく、有名人はもちろん、いわゆる庶民(民衆)もまた情報の発信源となり得る時代というのは、(前現代では確実に不干渉であったという意味で)素晴らしい相互通行なのですが、発信される情報に対して、匿名という方法を用いて意見を述べる。"twittter" のクソリプのように。あるいは偏執的執着心のように。

しかし内容が議論や意見を超えて、特定の個人に対しての名誉既存、誹謗中傷、攻撃(口撃)となっている。「民衆」(あるいは「大衆」)とカテゴライズされど僕にとっては、

んなもん、イチイチ、対応できるか(内容によっちゃやらざる得ない)。

結果的に、

こういった痛ましい自死(あるいは他殺)が起こる訳です(僕は彼女を存じ上げていませんが)。

生真面目・・・なのか社会的な知名度があるからこそなのかは分かりませんが、ひとつずつ目を通すんですかね。興味深いのは一部のファンを除いて、「心よりご冥福を」・・・って鎮魂の言葉さえもが匿名でブログ等に載せられるってとこでしょうか。

◆僕は匿名性が好きではありません。

そもそも論として、ポジション・トークを嫌悪する僕にとって匿名などあり得ない。高度な情報化社会に身を置いている自己も知っている。良く言えば、せっかく多くの人と電波上で話や対話できる条件が整ったのだから、批評も含めて、議論したらいいじゃないか、と思う訳です。しかし実際はそうではなく、議論や批評を恐れて匿名を選択する。つまり、匿名性こそが一定の尺度で発言の強度を保っている、その内容がまかり通ってしまう。そんな世界が一般化されつつある世界に、我々は生きている。ならば SNS など一旦置いておいて、リアルな対面的な繋がりを目指せばいいと思いますが、それは地続きではないと考える人が増えている。

◆ここでいきなりですが、タイトルに合わせてボクシングを持ち出します。

プロであれアマチュアであれ、あるいは出稽古の相手であれ、そこに皆無なのが「匿名性」です。匿名性など何の意味も無い。観衆が見ている場で、リングという場所で、"どつきあい" をする。

僕自身としては、そのようなリング上という場所性は、

 ①越境(border-crossing)。

 ②日常的な秩序が逆転・解体した非日常的な社会状態。

 ③高度な情報化社会とは無関係の状態。


など、言ってみれば徒歩巡礼者という同胞間で、社会的・経済的・政治的立場が無効化される場所という意味が機能していると感じています。人類学的な概念を用いれば、V・ターナーによる(あるいは通過儀礼を理論化したヴァン・ジェネップ,Arnold van Gennep)「コミュニタス」理論に繋がります。それは、おそらく徒歩巡礼者やバックパッカー以上に、そこに属する全ての成員がフラットな共同体です。

僕は知らぬ間に40代ですが、10代、20代、30代、40代とも方法によってはそれなりに練習相手になれると思っています。実際、僕が経験半年のとき初めての試合では47歳相手にボコボコにされました(今ではなぜ、あれを避けれなかったのかと思いますが)。しかし、生身の身体がぶつかり合った状況を忘れることはありません(冷静に反省すれば、見えていなかった、環境に呑まれていたのですが)むしろリベンジしたいぐらいです。

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現在でも練習中にジムに上がるときには、

「リング入ります!」

と大きな声で言います。それに対して、年齢や性差など関係なく、

「ハイ!」「チース!」「ウィッス!」

という大きな掛け声を返してくれます。その意味では、まさにV・ターナーが言う「ボーダー状態」がリング上です。

リングとは、境界線に存在する「異人」的な意味を備えている、あるいは生死の狭間にある象徴的・神聖な場所であるからこそ、周知するための合図と呼応を要する訳です。

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高度な情報化社会に身を落とされたからこそ、匿名性を忌避する、そんな違和感が僕をボクシングに到達してくれた

そんな気さえする今日です。

 

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