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「笑いの構造」~承知していない無害に直面すること~

先日「怒りの構造」について記事を書きました。

「承知していないことが起きて、自分に害があれば怒りになる」と、商品のキズなどで例えましたが、その後、鴻上尚史さんの本を読んで「怒りの構造」と「笑いの構造」は紙一重だと気付きました。

この本の一節では、笑いとは「構図のズレ」と説明しています。

「構図」とはシェーマとかスキーマと言われるもので「世界はこういうものだ」と認識しているその枠組のような「自分が承知している世界観」のようなもの。なので大人の「構図」と子供の「構図」は違います。

例えば、幼稚園のお絵描きで鼻に絵の具を付けてしまった子など居たら、それを見た園児は大笑いするでしょうね。でも、なんで?

大人なら、絵描きで絵の具が鼻につくのは自然だし、拭えば取れると考えます。大人の「構図」の範疇内だから別に面白くありません。
園児の場合、鼻に絵の具が付いてしまうのは、園児の「構図」からズレた有りえない事件なのです。だから面白くて仕方ない。

「構図」が小さいほど低レベルの笑いでツボれます。橋が転がっただけでも笑える年頃です。逆に大人になったら笑いが止まらないことなど滅多になくなります。経験を積んで「構図」が大きくなるから笑いのツボが減ってしまうのは自然の摂理。低レベルの笑いに楽しむことを、恥ずかしく思いはじめたら大人の証?(笑)

園児のお絵描きに戻ります。

さて、笑う園児に囲まれた当の本人はどうでしょう?

わざと鼻に絵の具を付けたわけじゃないのに、突然みんなに笑われた。恥ずかしいし怒りたくなります。これは同じ「構図のズレ」でも自分に実害があると笑うどころか怒るのです。

笑いは「承知していない無害を傍観したときの感情」
怒りは「承知していない実害を被ったときの感情」
だと思います。

あなたは何で笑いますか?
同じ笑いを共有したいな。
「構図」の一致、大事。


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