見出し画像

インテグラル・サイケデリックラジオ第49回の振り返り その2

さて、意識を探究するにあたって、普遍意識に主軸を置いた際、それについては各宗教がもうすでに言い表している。仏教でいう「空」、ヒンドゥー教でいう「ブラフマン」、キリスト教でいう「神」などがそれである。

私にとっては不思議な話であったが、最先端の物理学者も、最初の出発点こそ物理主義ではあるが、途中から、または深淵な領域に近づいていけばいくほど、物質主義ではないと否定するようである。量子というのは確率的な可能性でああり、確率的な波として存在しており、私たちの観察を通して、量子という物質的なものに変換される。観察の前段階としては確率的な波としてあるだけであり、物質(マター)ではなく、コンシャスネスとして存在していると量子力学者たちも気づくのだそう。この点はまたいつか探究してみたいテーマである。

さて、意識を個人の意識・普遍の意識として区別していたが、それらのどちらもにおいて、
“立ち現れるとき”は、二元論の特徴が現れるが、普遍意識そのものは一元論の立場をとられるという加藤先生の立場であった。究極的な普遍意識には、フィジカリズムが入る余地なしと。意識そのものを語る時と、意識の立ち現れ方を語る時ではこの立場が変わるのかどうかも、これからの残りの章を読み進める中で考えていきたい。

さて、最後に、「禅」という言葉を聞いたことがない日本人はほぼいないだろう。そして、この単語ほど、それ自体は知っているが、その本質として理解と経験をもって実感している人が少ないのもまた事実であろう。
禅は、意識そのものを経験しなさいというだけであるから、語って知的に理解できることは超えている。ただ、もし、いわゆる「禅の本質」を体験した人がいたとしても、それを言語によって伝えることができるかどうかはまた別問題である。そこに、サイケデリック体験と意識の本質・意識哲学を学ぶ理由もありそうである。語るために学ぶことがその理由の一つであるかもしれない。だが、そうやって、各宗教がもうその世界を語っているのであれば、わざわざ語る必要がないのではないだろうか?と一瞬よぎったが、この語り方は千差万別であろうから、誰がそれを知覚して、解釈して、発信するかによって、誰に届くのか、響くのか、影響を与えて世の中を良い方へ誘おうとするのかは全く異なることであろう。仮に、伝えたい本質が同じであったとしてもだ。
加藤先生もおっしゃるには、意識の本質がわかれば、どれだけ治癒と変容が起こるかとのことであった。意識が絡まない人・世界はないのであるから、多くの視点が持てることが成長につながることはなんとなく想像できる。

https://stand.fm/episodes/659e9f79fb39ec7af7c95f6b

早田航


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?