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二つのトビをめぐって

Amebaにブログを書いている。しかし、書ききれていないと思うので、もう一度書き直してみた。まずは、それを再録してみる。

せんじつ、読書イニシアチブ(註1)へ本を補充に行って、つい手を出して買ってしまった本がある。
 
面白いので、一気に読了した。
 
上田正明×鎌田純一『日本の神々 『先代旧事本記』の復権』(大和書房)
2004年の発行なので、二十年前の本になる。
関心は、『先代旧事本記』で、物部氏の伝承ということだ。
重要なのは3巻5巻10巻だと言っている。
 
『日本書紀』の「神武紀」に、東征の話がある。九州からやってきて、大阪湾にはいり、河内から生駒山越えで奈良盆地に入りろうとして、ナガスネヒコに阻止されるという記述があって、そのおりに、先に物部の祖である饒速日(ニギハヤヒ)がその地に降臨していたということが書かれている。饒速日はナガスネヒコの妹を娶って王になっていたというのだ。いわゆる外来王(註2)。
 
そのナガスネヒコが神武に屈服しないというので、義兄であるナガスネヒコを殺して、神武に服属したという話だ。
 
これが、物部の伝承である『先代旧事本記』にも出てくる。
 
『先代旧事本記』は江戸時代に偽書ではないかと言われ始めて、明治期に入って完全に偽書扱いされたらしい。
 
それを二人が、復権することを念頭に対談している。
 
しかし、偽書というなら『日本書紀』だって、作り話が多いわけで、やにわにはすべてを信じられない。明治から1945年の敗戦までの間は天皇制イデオロギーの時代であったから、『日本書紀』『古事記』は正書で、『先代旧事本記』は偽書とする議論があったとしても、現在ではどちらも、その記載については疑ってかかっていいだろう。
 
そうすると、なぜ『先代旧事本記』(9C末ゴロと推定)が『日本書紀』(720年)を裏打ちする形で、おなじニギハヤヒ降臨の伝承を記しているのだろうか?
 
当時の政治情勢の中、藤原氏に気を使ったのかもしれないし、いや逆にすでにあった物部氏の伝承を『日本書紀』に先に使われてしまったのかもしれない。
 
そうだとすると、長脛(ナガは蛇、脛はすねではなくチョグアリ→チョグ・カリ→鐘・邑だというー畑井弘)邑がトビ邑に代わったのは、蛇を信仰対象にする蛇神族が滅ぼされた(註3)ということになるが、その地が、桜井市の鳥見山、等弥神社周辺と生駒市北の磐船神社から富雄川をくだった矢田郷の式内社登弥神社までの地域とする二つがあるのはなぜかということ。(註4)

まさに奈良盆地の東南と北西という対称の位置にあたる。
 
どちらなんだという前に、神武は東征(註5)してきたということになっているから、大阪湾から入ってきて、生駒山麓から山越えして侵入してくるということでなければならない。そこでは、この物部の伝承は使えるのであり、一方桜井のトビは宇陀から侵入してきての順路として、忍坂で撃ち、兄磯城を撃った後に続くから、行軍の順路としては順当であると言える。
 
なぜ、『日本書紀』はトビの地名を出さないだろうか?
 
それは、この二つの伝承が別々のものだからではないのか。
 
関裕二は、神武東征は神功皇后・応神のヤマトへの帰還の伝承を模しているのだと言っている。神功皇后の場合は、敵対するのは、オシクマ王とカゴサカ王だ。同じように紀州周りの航路を取る。この帰路を模しているのだとすると、オシクマ王たちの役割をナガスネヒコがしているということになるのか。
 
まだ、この時代、完全なつくばなしは作れないので、何らかの伝承を探したのだと考えられる。それの編集と改ざんという方法しかなかったと考えられる。
 
本書の6章に氏族というのは、血縁関係というよりも政治集団であるという。物部氏という政治集団(註6)であったのだ。だから全国各地に物部はいるし、また多数の集団が存在しのだろう。物部の祖がニギハヤヒひとりではなかったのではないか。また、物部守屋が殺されたからといって、物部氏が滅びたわけではないのだ。(註7)

註1
「読書イニシアチブ」は大阪市阿倍野区にある書肆七味内のBOXシェア古書店。

註2
若かりし上野千鶴子が発表した論文「〈外部〉の分節 記紀の神話論理学」『大系 仏教と日本人 神と仏』(1985)所収。
構造人類学の神話論理学を用いての記紀神話の分析という論文だ。
外来王(stranger-king)というのは、マーシャル・サーリンズがとなえた概念で、ヨソモノがやってきて、土地の女と通婚することによって王権を打ち立てるという概念だ。これは記紀神話の中で、スサノオの出雲降臨譚の中にすでに出そろっているという。多くのポリネシア首長国の王権神話と共通しているという。フィジーの王権神話にもあるというので、メラネシアも共通するのだろう。日本列島をふくめて、環太平洋の島国に共通するといい得るのだろう。
そして、まさにニギハヤヒその人も外来王だということだ。
それも、地元の権力者の妹と通婚して、王になるという構造で、権力者と義兄弟になるわけだ。とうぜん、王ではあるけれど、実権は義理の兄(ここではナガスネヒコ)にある。すべての権力を掌握した王ではない。むしろ、外部に通じているという権威だけなのだ。古代の人にとって外部というのは恐怖の対象であったから、そこに通じているというのが聖的なものになるということだ。
これが、記紀神話にあるように、ニギハヤヒがナガスネヒコを亡ぼして、神武側についたという話だ(古事記ではその息子ウマシママジ)。これがなにを意味するのかということだけれど、ニギハヤヒの立ち位置が、ナガスネヒコと入れ替わったのではないかということだ。つまり神武(イワレヒコ)が外来王になり、ニギハヤヒが実質的な権力者になったということではないか。
物部氏の系譜である『先代旧事本記』を扱った、大野七三『神々の原像』所収の系図をみてみよう。



 

まさに、イスケヨリヒメの兄はウマシマチである。
以後、大王は代々物部氏だけでなく、出雲、尾張、磯城の豪族たちの娘と通婚していく。
そして実質的な権力者は物部氏、その関連の豪族たちであった。
以下の「政治・祭祀の両権掌握者」をみるとほぼ物部氏が独占していたことが分かる。



 

 また、神武から始まる王権がMBD婚(Mothers Brothers daughter)であったという。9代の開化までで、皇族の女2人、豪族の女7人であった。それが10代崇神から允恭までが逆転して皇族内からに代わるという。崇神から通婚方法が変わったのだということが分かる。おそらく、そこで時代で変わったのだ。そこで、崇神を「御肇国」(ハツクニシラス)と呼んだのかもしれない。はじめての大王という意味。実際は護立だけれど。

註3
ナガ(蛇)とトビ(鳥)はどうも同意語らしい。『宇佐宮託宣集』に八幡大神の発現として「霊蛇、化して鳥となる」とあるので、同意語というより蛇信仰の聖なるもののようだ。
だから、蛇トーテムから鵄トーテムへ移ったのではなく、金鵄説話というのは蛇信仰の聖なるものが、神武側についたと言いたのだろう。金鵄のエピソードだけれど。

註4
トビの想定地が二つあるのは、記紀がその場所を記載しなかったからであるけれど、その論争はむかしからあったようで、『生駒市誌 資料編』(1971年)に「金鵄発祥史蹟考」という池田勝太郎の文章を載せている。それによると「明治42年、磯城郡桜井町及び磯島村有志者の請願に依りて衆議院の採択決議に上れり則ち鳥見霊畤の史蹟は其所在両説ありて未だ俄に是非真為を甄別(しんべつ)すべからずなり」とあるので、決定することはできないとしている。明治時代には「日本書紀」の記載は真実であるとしていたから、その場所の論争がなされたのであるけれど、すでに日本書紀を所与のものとしては受け入れない立場にある我々としては、そんなにこだわることではない。むしろ、別々の伝承をつなげたのではないかと考えられる。
 
註5
私は神武は東征したのではなく、東からやってきたという考えにあるので、在地のナガスネヒコを撃ったというのは、ヤマト盆地平定の一貫であろうと考えられるのだけれど、森浩一『日本神話の考古学』に面白い記載がある。それは、最終末に「瀬戸内海を東進し、大阪湾に入り、河内の湖を経て、生駒山脈のふもとに攻め込んだイワレ彦の軍勢を迎え撃ったのはニギハヤヒの勢力であり、それに協力して大和の勢力も加わった」とある。じつは、ナガスネヒコと戦ったのではなく、神武はニギハヤヒと戦ったのではないだろうか? そして、その経過は、先にも述べているように、ニギハヤヒは帰順したというエピソードが本来の姿ではないだろうか。しかし、神武は東征ではなく、征西だというので、この伝承は一体だれがモデルなのかと気になる。
そう考えると、鵄山と白谷との激突の後の白谷で皇軍が最後にナガスネヒコ軍を追い立てたのは勝尾坂で、生駒山に向けた中垣内越えの道を逃げていったというので、まさに物部の本拠地である河内へと逃げていったことになる。ナガスネヒコ軍なら白谷が本拠地だからその周辺にバラバラに逃げていくはずだろうからだ。
 
この間の地理関係については、先の『生駒市誌』に図を載せているので、それを見ていただきたい。関裕二による、神武東征は神功皇后帰還の模倣だというので、生駒越えの進軍はタケノウチノスクネ軍の経路ではなかったか。そうだとすると先の気になるモデルとは、撃ったのはナガスネヒコではなく、オシクマ王だということになる。神功皇后西征のおり、生駒山の暗峠越えの道を通って行ったとの伝承が生駒にはあるので、この道に帰還してきて不思議ではない。
ちなみに、生駒越えはこの道か、中垣内越えの道、即ち龍間越えの道になる。日本書紀で「龍田越え」とあるのは「龍間越え」の間違いだろうと地元では考えられている。
 


 


 註6
物部氏の全体像については、畑井弘が『物部氏の伝承』(講談社学術文庫)で簡潔に語っている。

「物部氏」という氏族は存在しなかった。存在したのは「物具(モノノグ 兵器)を中心とする金属器生産に携わり、「師霊(フツノミタマ)」を祭り、「モノノフ」として軍事に従った幾多の「物部八十伴雄(モノノフノヤソトモノヲ)氏族軍と、それらを統率してヤマト王権の軍事・警察的、祭祀的伴造(トモノミヤツコ)としての職掌を担った「物部連(ムラジ)家たる氏族とであった.

血族集団ではなく、様々な集団が集まっていた政治集団という。それも皇統が万世一系でないように物部氏も万世一系ではないとしている。

註7
すでに我々は、文献史学的な、記紀の記述を所与のものとして扱うという情況にない。ではどうすればいいのかというと、仮説モデルをたてて検討していくしかないのではないだろうか。むろんこれまでもなされてきているのだけれど、文献に書かれている事実の整合性を求めるのではなく、他の資料(考古学、人類学などの研究)をも踏まえての仮説モデルということになる。
でも、なにが正しいかは、永久にわからない。その時代その時代の解釈でしかないのだから。時代というものの制約をうけている。まさに本稿もその一つだ。

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