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山下良道氏への違和感―『Samgha Japan+』2号にざっと目を通して

面白そうな記事を中心にさっと目を通しました。

わざわざ、記事アップしようとしたのは、山下良道「令和の時代の「仏教3.0」」です。

なんか、違うんだよなぁという違和感があったからです。

この記事は、サンガ新社のオンラインサイトに連載されているらしいのですが、そのシーズン5の前半3話だそうです。私はオンラインサイトには参加していないので、この雑誌の文章しか知りません。そこで、この文章を読んだだけの感想になります。

山下氏があしざまに反ワクチン派を糾弾するのが、なぜ仏教3.0になるのかが、よくわかりませんでした。それも、実は昔は自分も自然農法などの化学肥料を使わないで作物などを作る自然派*だったが、その対極と想定している科学派**に転向したというのも、よく説明されていません。おそらく「もう一つの部屋」と関係しているのでしょうが、それも説明されません。

*自然派と呼んでいるのが、ナチュラルであることを重視する、ある意味自然に帰れというような行き過ぎた科学主義による人為的な操作へのカウンターとして出てきたものをさしているようです。
**科学派と呼んでいるのは、それに対抗する意味での科学的理解の認識をさしているようで、ここでは直接的には、ワクチンは心配ない、うちなさい、という推進派をさしています。

何かおかしいという違和感は、この反ワクチンへの言動で始まったのですが、どうもおかしいと、距離をとり始めたのは、コロナ禍の少し前くらいからです。
そんなことより、肝心の仏教のアップデートについては、どうなっているんだという思いもあり、今回、山下良道氏は停滞しているのではないかという知覚を得ました。

以下、ブログにしようと、もう一度しっかり読み返してみまして三点ほどを述べてみたいと思います。

①    只管打坐とマインドフルネスが矛盾するという山下氏の見解が、どうも道元理解としてはおかしいのではないかという点です。マインドフルネスの「観察しろ」というのが言語思考(シンキング)のことではないのではないかという疑問です。なぜ、それが絶対矛盾だというのかがわかりません。おそらく山下良道氏個人の中での矛盾なのでしょう。そう心的に現象したのだから、他人がどういうこともないのですが、誤解じゃないのかと思います。あとで、藤田一照さんについて触れますが、なにかおかしい。

②    もう一つは、この対立が「もう一つの部屋のもうひとつの私」と関係しているのでしょうが、山下氏のうけたマインドフルネスの衝撃が、「自然医療をしていた人に、mRNAのワクチンを接種しろ」と言うようになるのがよくわからないし、皆さんに勧めているとなるともっと不明です。なぜ「もう一つの部屋のもうひとつの私」がわかれば、ワクチン接種につながるのでしょうか。

ワクチン接種には科学者のあいだでも批判している人もいます。政府とマスコミによって不当に情報操作されていますが、科学(サイエンス)=ワクチン接種ではありません。スピリチュアルの方も、一枚岩ではなく様々なグラデュレーションがあるでしょう。自然派、科学派のどちら一方のイデオロギー的に偏ってしまう方が危険なのではないでしょうか。おそらく、実際的にはこの二つの間にいる人々がほとんどなのではないでしょうか。

ワクチン接種をしたいひとは接種すればいいし、したくない人はしなくていいのではないでしょうか。とくに、コロナがオミクロン株になった現在では、その危険性は風邪なみであるとのことですので、なおさらです。

いやいや、そのような議論よりも、自分の命は自分のものなので、自分で判断すべきなのです。1回目、2回目は危ないと思い打ったけれど、3回目はもう必要ないと考えて打たなかったという情況判断もありで、そちらの方こそ真実性があるのではないでしょうか。

③    いやいや、そんな世俗的な問題ではなく(世俗だからダメと言っているわけではありません)もっとも核心的なことです。それを、「新しい次元」だと言っているのに、その中身を自分の言葉で語らないことです。本文では次のように述べています。

新しい次元の様子をなんとか伝えようとあらゆる言葉、表現を使っても、それらを全部、古い言葉に翻訳されて、元の木阿弥になってしまうのです。

だれに語ったのかというと、パオの仲間のようですが、ぜひその言葉たちをこの文章上でも表現していただきたいと思います。読み手がわかるかわからないかの問題ではなく、述べなけれればなにも伝わりませんから。

また、次のようにも言います。

どういう言葉が返ってきたか?
「あ、それ知っている、知っている。仏性のことでしょう?」
「集団的無意識のことでしょう?」
「宇宙意識のことでしょう?」
「今に在る意識のことでしょう?」
「それならよく知ってるよ。誰々の本にも書かれていたし、辞書にも載っているし」
すみません、そういう話では一切ないのですよ。

ああ言えばこう言うで、じゃあ、なんだと言わない。他人が発言した言葉を並べているだけです。その方法は常態化していて、いつもこの手法です。肝心なことを述べかけても、それを会員さんたちの感想として並べるやり方です。
そのものが語れないなら、より近いと思われる理論なり体系をお借りして語ってもいいじゃないかとも思うのですが、なぜだかそれすらしません。外延ばかりを語っても、俺は知っているのになぜ伝わらないんだと言っているようなものなのです。

これまで、出版された本もすべて、啓蒙的な本ばかりです。肝心の中身がありません。
おのれの考えがありません。解説ばかりです。

まだ語られていないが、いつか語りだされて、やっぱり良道氏はスゴイと感じたら、それを素直に発言することにやぶさかではありませんが、いまのところなにが仏教3.0*なのかの「もう一つの部屋のもうひとつの私」が分かりません。

*これまでの日本の大乗仏教の流れを1.0として、近年に入ってきたテーラワーダ仏教を2.0として、それらをアップデートするという意味をこめて、仏教3.0と呼んでいる。藤田一照×山下良道『アップデートする仏教』(幻冬舎新書)

山下良道氏の心の中で起こった現象ですので、私にとってはどうでもいいと言えばどうでもいいことなのですが、そこが問題だと思います。そこを語ってもらわないことには、我々にとってもヒントは得られないのであって、「オレは知っているけれど、なぜ伝わらないんだ」と言われても、理解しようがないわけです。
内山興正氏は自分の言葉で語りました。有名な自己曼画も自分の作り出した画をつかって語ります。それを作ってくれたおかげで、我々はそれを使って議論し、また仏教を深めることができるわけです。我々の議論が、内山氏の意図を離れていくかもしれませんが、それはそれでいいのですが、内山氏の自分の言葉で語ったという事が、我々にヒントを与えてくれているのだと思います。

一方、同じく仏教3.0を提唱した藤田一照氏は鈴木俊隆の本、『【新訳】禅マインド ビギナーズ・マインド』を翻訳した関係でか、2023年2月に講演をしています。この中で、悟りないし気づきは向こうからやってくるということを強調しています。それはYOU TUBEの③にあたる後半で語られていますが、決して言語思考で出てきたものではないという事でしょう。まさにそうなんだろうなと思います。何のことだか分からないでしょうが、もとは質問者に答える形で始まり、話が展開して、鈴木俊隆を高く評価しています。

発言のスタートは同書29項にある「皆さんは真の坐禅を修行することはできません。それは皆さん(・・・)が(・)坐禅を修行するからです。皆さんが修行しなければ、悟りがあり、真の修行があります。」というのは、どういう意味ですかという質問でした。

これに答えて、この「皆さんが」に傍点が振られているでしょうと言います。つまり皆さんが主体となって修行をするから悟りがないのだというわけです。皆さんが主ではなく向こうからやってくるのだと言っているのですと返答しています。これは35項「意識を超えて」につながるのですが、いわゆる意識だけの世界ではなく意識されない世界ともつながっており、それによってやってくるものがあるという意味です。
山下氏の「もう一つの部屋のもうひとつの私」というのが、このことをさしているのかもしれません。藤田一照氏はもう少し、話を展開しているので、YouTubeをご覧ください。


また、同じく仏教3.0に加わった哲学者の永井均氏は近著『独在性の矛は超越論的構成の盾を貫きうるか』で〈私〉は記憶の連続体である場合には超越論的な「私」を突き破ることはできないと結論しています。〈私〉も大事だけれど「私」も大事なのだと。
また、近刊の『〈私〉の哲学をアップデートする』(春秋社)2023,2,20でも〈私〉の哲学は深堀されています。
〈 〉が適用されるのは私と今と現実だとする永井氏に対して、入不二基義氏は、〈 〉はなんにでも適用できるという議論をしています。
ここでは、特に哲学議論に入る必要はないので、触れませんが、途中で面白いことを永井氏が言っています。
それは、ページ134,135で、ヴィパッサナーの本質にふれて、次のように言っています。

「例えば岸田政権に気づくということは、瞑想しないとできないんですよ。岸田政権のことを考えているときは、「岸田政権のことを考えているな」と気づけない。っていうことが話のポイントで、これはもう仏陀が直接言った放逸状態という問題ですね。「岸田政権のことを思っているな」と気づくということが、マインドフルになるということで、それがヴィパッサナーですから、岸田政権のことを考えているっていうそのことに気づけば、岸田政権のことがものすごく気になる人で、ついついいつも岸田政権のことを考えちゃうような人は、「あ、また岸田政権のことを考えている」というふうに気づけばいいんで、そのときは岸田政権の思考の実存(・・)に気づくんですよ。本質ではなくて。ここがポイントですね」

気づきについて、「悟り」とか「宗教的なもの」ではなく、岸田政権という世俗的な事象をとり上げているので、分かりすいかもしれません。
岸田政権のことを言語思考であれこれ考えているのではなく、アッ俺はまた岸田政権のことを考えているなと気づけば、むこうからその実存が見えてくるという作用なのだと言いかえることができるでしょうか。

後の、ページ177では「実はメタレベルのものなんです」語っています。
メタというのは、そのあとに語をつけて「~超えて」「高次の~」の意味になるギリシャ語の接頭語ですが、メタフィクション、メタバース、メタフィジカルなどと使います。
それはメタ作用と言ってもいいでしょう。
この引用の後には仏教修行がこのことだとすれば、「仏教ってまったく哲学なんですよね」といい、「哲学を知らないと仏教的修行できない、真似してみても実は何をやっているのか分からない、ということになる」と言います。

山下良道氏の「もう一つの部屋のもうひとつの私」がこのメタ作用ということではないのでしょうか? おそらく、「そういう話では一切ないのですよ」と言うでしょうが。

それじゃお前はどう考えているんだといわれれば、第一義的には〈私〉の発見がすべてです。これを発見しないことには始まらない。私の経験では、このことをお話しても何を言っているのか分からないという顔をされます。
永井氏の〈私〉の概念とはすこしずれるかもしれませんが、ほぼ近い位置にあると思っています。問題はここから先です。これで終わりではなくて、「私」への帰還の問題があります。永井理論では、〈私〉は「私」を打ち破れないとの結論に至っていますので、それが本当なのかの瞑想時の確認を必要としています。


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