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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第9回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

⑨まだまだある特攻文学映画  《あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。》


★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》《あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。

特攻文学が人を感動させるのはなぜか、改めて考える


坂元
 特攻文学で人が感動するというのは、よく考えてみれば不思議なことだと思うのですよね。十死零生の特攻隊は、戦時中の軍国主義的な価値観を体現していますよね。戦後の平和教育的な価値観とはまったく相容れないはずなのに、過去の特攻を題材にとった作品には感動するわけですから。

 この謎について、井上さんは、創作特攻文学が現代の人を感動させるのは「私たちが大切にしている価値観に深く静かに突き刺さり、前向きに生きていく力を与えてくれるからだ」と話しましたね。《ゴジラ-1.0》は創作特攻文学のロジックを用いた作品ですが、世代や国境を超えて、多くの人から支持されるのは「自分の生き方を見つめ直し、前向きに生きる力を与えてくれる」という部分が注目されたからかなと思ったのですが。

井上 これまで述べてきたように、《ゴジラ-1.0》は従来の特攻文学パターンにそのまま当てはまるわけではないけれども、大事な要素はきちんと押さえています。しかも「本当に死を覚悟する時、それは未来が見えた時」というもっとも重い特攻要素をしっかり見せながら、主人公を死なせることなくラストシーンを盛り上げ、見た人たちにカタルシスをもたらしました。

坂元 井上さんは『特攻文学論』で、「人を感動させる特攻の物語をつくりなさい」という〈悪魔の創作課題〉を挙げています。《ゴジラ-1.0》がこの課題に対する山崎監督の解答だとしたら、どう評価しますか。

井上 悪魔の創作課題、というのは、特攻文学を「安直なお涙頂戴モノ」と舐めてかかる人に対して、特攻で人を感動させるのは想像するほど簡単ではないと戒めるためのものです。理屈を教わるよりも、まずは自分で創作してみるのが一番、というわけです。

 ほとんどの人は、どこかで見聞きした既知の物語を真似ることしかできません。この課題は、感動の構造について徹底的に掘り下げたうえで、まったく新しい物語にそれを組み込むことが要求されます。

 それでいうと、《ゴジラ-1.0》は文句なしの最高評価でしょう。

タイムスリップ系創作特攻文学の最先端が映画化


坂元
 『特攻文学論』の「はじめに」で、百田尚樹『永遠のゼロ』と並べて「号泣もの」として挙げられていた汐見夏衛『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』(スターツ文庫、2016年)も映画化されましたね。公開されたのは、《ゴジラ-1.0》の1ケ月後の12月でした。若手人気俳優を起用し、若い女性を中心に支持されて観客動員数350万人、興行収入45億円の大ヒットとなりました。

私は映画を観られなかったのですが、原作は『特攻文学論』で知って読み、この連載のために読み直しました。文庫本は2024年2月14日で第42刷となっていて、発行部数は125万部を超えたとか。

井上 『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』は創作特攻文学のなかでは現代の若者を戦時中にタイムスリップさせる「時間移動モノ」の系譜に位置づけられます。

 この系譜を遡ると、今井雅之『ウィンズ・オブ・ゴッド』(角川書店、1995年)や荻原浩『僕たちの戦争』(双葉社、2004年)などがあります。いずれも、読者と価値観を同じくする主人公が時間移動した先の世界で葛藤しながら、どう向き合うのかが見どころです。最初は反発しながらも、変容したり、折り合いをつけたりしていくところにドラマが生まれます。

『あの花が咲く丘で~』は現代の女子中学生がタイムスリップした戦時下で特攻隊員たちと出会い、隊員のひとりと恋に落ちるという話です。もうこの設定だけで泣きそうになりませんか。映画版では、主人公を高校生にして、また両親について新しい設定を入れています。

坂元 内容に入る前に、気になったのはその映画化作品が12月8日、つまり真珠湾攻撃で太平洋戦争が開戦した日に公開されたのですが、なんと言うか、それがOKになる時代になったんだな……と感じました。

井上 私も最初、「12.8」が気になったのですが、残念ながら(笑)あまり深い意味はないと思います。東宝や松竹は2018年4月から映画公開日を金曜日にしているのですよ。松竹の《あの花が咲く丘で…》の12月8日は金曜日、東宝の《ゴジラ-1.0》の11月3日も金曜日でした。それ以前は原則土曜日ということで、東宝の《永遠の0》の公開は2013年12月21日、土曜日でした。

 ただ、おっしゃるように、たとえ偶然だとしても「12.8に戦争映画を公開することの意味」をうがって考える人もだいぶ減ってしまった、というのは確かでしょうね。

坂元 純粋にスケジュールの都合でしたか(笑)。ではそこは掘り下げないでおきます。

 さて、主人公・百合(福原遥)にとって初恋の相手となる特攻隊員・彰(水上恒司)は、「死んでほしくない」という百合の願いを理解しながら、結局特攻作戦に出撃して死んでしまいます。先ほど、井上さんは「この設定だけで泣きそうになる」と言いましたが、ある意味、これは予想された結末ですよね。特攻隊員に恋したわけですから。

井上 おっしゃる通り、そこまでは読者(観客)は想定内です。特攻隊員に恋するという設定から「あーこれは泣けるヤツだ」という期待をもつ方もいるでしょうね。実際、出撃のシーンはひとつの山場になっています。

 そのうえで、この作品の凄さは、そのあとにもうひとつ大きな山場を持ってくるところにあります。百合とともに、私たちが号泣するのは、そこです。

 出撃後、現代に戻ってきた百合は、出撃直前に彰が書いていた手紙を見つけます。特攻隊員の彰が戦死してから実際には80年近い時間が経過していますから、客観的には歴史的資料ですよ。けれども、百合にとっては彰の出撃を見送ったのはほんの数日前です。その古い手紙を通して、まるで彰の遺志が80年という時間を飛び越えて、現代の百合を射抜き、さらに私たちの心にまで刺さるように感じられるわけです。

“でも、俺は、この気持ちがただ海の泡として消えていくのだけは耐えられなかった。だからここに、俺の素直な思いを記させてほしい”
(『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』258頁)

坂元 中学生が初恋の人からの告白とメッセージを80年越しに知るという仕掛けは、斬新でした。その衝撃も手伝って、百合が彰を想う過去向きのベクトルよりも、彰が出撃直前に遺した未来向きのベクトルのほうが、より強く、百合を、そして私たちを貫く……と! 

井上 その通りです。みごとな「未来」への繋げ方だと思います。彼が守ろうとした未来に私は生きている、という実感。そして、そんな未来を自分はきちんと生きているだろうかと襟を正すような「前を向いて生きる」ラストが、じつに爽やかな読後感を残すわけです。

「タイムスリップ初恋」は成長物語か、特攻の自己啓発的な受容か


坂元
 それから、この作品は、特攻隊員との恋愛物語であると同時に、百合自身の成長物語でもあります。現代でイラついていたときにはわからなかった働く母親の姿だとか、便利な時代に生きているありがたさに気づくようになる。叶わぬ恋をしたぐらいでは、これほど精神的に大きく成長しませんよね。

井上 とても大事な論点です。タイムスリップの前後で、別人格と思えるほど百合は成長している。恋愛経験だけでは不可能な変容です(笑)。

 連載第1回で「特攻の自己啓発的な受容」というキーワードを出しました。特攻隊の物語をきっかけに人生を前向きに捉え直す、という受容のあり方のことです。それで言えば、『あの花が咲く丘で~』は、特攻の自己啓発的な受容を、作品世界のなかで表現しています。

 ただ、その成長の内実については、原作小説と映画では力点が異なっています。母親への反抗的な態度がなくなり、自分の人生を前向きに捉え直すところは変わりません。原作では、校外活動のグループでリーダーに立候補するなど、人間関係の構築に積極的になりました。

 映画ではオリジナルな設定を入れています。すなわち、他所の子を助けるために(自分と母親を残して)犠牲となった父親に対して、最初は否定的な感情しか持てなかったのが、特攻隊員との交流を経て、受け入れられるようになったのです。

坂元 子ども側が「犠牲となった父」を受け入れられるということは、「父になる」と関係があるように思えますね。(連載第4回第5回を参照)

井上 あると思います。《ゴジラ-1.0》では、敷島が「父になる」のは「死を覚悟したとき=未来が見えたとき」でしたね。もしも、敷島が海神作戦でゴジラと刺し違えて死んでいたら、残された明子は将来、父のことをどう思うでしょうか。

坂元 やっぱり、「どうして自分のそばにいてくれなかったのか」と、敷島に恨みのような感情を抱いてしまうでしょう……。

井上 そうですよね。でも、いつか、お父さんはみんなの未来を守るために命を懸けたのだと理解するときが来るかもしれない。この場合、敷島が本当の意味で「父になる」のは、敷島の命のタスキを明子が受け取ったとき、といってもいい。

《あの花が咲く丘で~》でも、最初、亡き父の命のタスキは宙づりになっていました。百合はタイムスリップ後にようやく、それを受け取ることができたのです。

 自らの命と引き換えに、この国の未来を後の世代に託す。このような死者のメッセージを、託される(受け取る)側から捉え直して「命のタスキ」と呼びます。命のタスキとは、現代における特攻の自己啓発的な受容のあり方を理解するためのキーワードです。

『特攻文学論』121頁

坂元 私の父方の祖父も戦死しているので、父や伯母たちがどう感じてきたのか、聞いてみたくなってきました。

 著者の汐見夏衛氏は、子どもの頃に学校行事で「知覧特攻平和会館」を訪れて衝撃を受けたそうです。大人になって教師となり、「平和な現代の日本に生きる私たちにとっては縁遠い『戦争』と、全ての人が経験する『恋愛』を結びつけた物語ならばきっと、大切な人の命を奪われることの悲痛を、自分に寄せて考えるきっかけになるのではないか」(「あとがき」より)と考えて書いた。出版社がターゲットとする読者層をよく知り、(おそらくは)死者のメッセージを託された著者によって生み出された作品ですね。

菊地(修一氏、スターツ出版の代表取締役社長):彼女は学校の先生で、授業で戦争の話をしても、生徒がピンとこないことに危機感を持ってあの作品を書いたといいます。そこで書いたものが、うちの編集者の目に留まった。

「恋空」のスターツ出版がスゴいことになっていた(東洋経済ONLINE 2024/03/15)

井上 そうですね。戦争や特攻隊を題材にした小説としては、これまで届きにくかった中高生に確実に届けることができたという意味で、本当に画期的だと思います。

 そのうえで、若い読者が、自分の感情の揺れ動きの意味を言語化することは、また別の難しさがあります。これは教育や評論の仕事になってきますが、「大切な人の命を奪われることの悲痛」はもちろんのこと、それにとどまらない、特攻文学の本質に丁寧に向き合う言説がもっと出てくればいいですね。

 次回も「まだまだある特攻文学映画」をお届けします。取り上げるのは2020年3月6日公開の《Fukushima 50》。「えっ、戦争映画じゃないでしょ?」と思われるでしょうが、じつに特攻文学要素が濃厚なのです! どうぞお楽しみに。

◎著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

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