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特攻文学としての《ゴジラ-1.0》|第8回|井上義和・坂元希美

(構成:坂元希美)

⑧なぜか日本だけに襲来するゴジラ 専守防衛を戦え!


★ネタバレ注意★
映画《ゴジラ-1.0》のネタバレが含まれていますので、知りたくないという方はこの先、ご遠慮ください。そして、ぜひ映画鑑賞後にまた読みにいらしてください。

人びとの心をつなぎ、力を発揮させる「祖国スイッチ」

坂元 第7回で「祖国」というキーワードが出てきました。最初に少しおさらいしておきたいのですが、「祖国」は、国家の存立に関わる事態に直面したときに参照される、というお話でしたね。

 平時には大統領選挙や君主の代替わりなどがそのケースに該当します。しかし、他国から軍事侵攻や武力攻撃を受けるといった有事においてこそ、「祖国」という言葉が人びとの心をつなぎ、国難に立ち向かう力を発揮させるのである、と。

井上 的確な要約をありがとうございます。普段はそんなものは意識せずにバラバラに生活しているものですが、いざというときには、祖国の想像力へのスイッチが入る。たいていの国では、そうなっているはずです。

 祖国は想像力や物語の次元にあると言いましたが、難解なテキスト解釈を要求するものではなくて、例えば国歌や国旗のようなシンボルが、そのエッセンスを濃縮して充填したカプセルの役割を果たしています。

坂元 スポーツの国際大会も「祖国スイッチ」を入れる練習になっていると考えることも可能ですね。

 前回、アイルランド国歌を参照しましたが、確かにみんなで歌うことが「我らは勇敢な父祖たちの命のタスキをつなぐ兵士だ」という気持ちを盛り上げますし、スイッチを押す推進力になります。

東京2020オリンピック競技大会の開会式
photo: Breno Barros

 平時から濃縮カプセルを摂取し、想像力を涵養しておくことで、本当に有事となった際にもちゃんとスイッチが入るようになると。

井上 その通りです。付け加えるなら、「我らは勇敢な父祖の子孫である」という過去との連続性だけでなく、「我らも子孫にとって勇敢な父祖たらん」という未来との連続性も大事です。すなわち、過去の父祖のまなざしと、未来の子孫のまなざしの、両方を内面化するということです。

 両者がセットになって初めて、命のタスキリレーは完成します。つまり、自分たちを命のタスキリレーの中継者として位置づける、ということですね。

坂元 なるほど、愛国心とどう違うのかなと思いながら聞いていたのですが、愛国心はイマココに湧き起こる感情といった類のもので、連続性がない。《ゴジラ-1.0》において、海神(わだつみ)作戦の参加者たちがタスキリレーの中間に位置するから「未来」という言葉で士気を高めていくことと、「過去」の負い目を乗り越えることが同時に可能となるわけですね。

 ただ、この場合の「過去」には、命のタスキをつないできた先人たち――アイルランド国歌でいう「勇敢な父祖たち」――が含まれている感じがあんまりしないのですけれども。

傷ついた祖国を再建するプロジェクト

井上 《ゴジラ-1.0》の場合、先人とは断絶があると考えたほうがいいでしょう。これもまた、負い目だと私は思います。先人と断絶してしまった負い目とでも言いましょうか。

 祖国の想像力のベースには、「先人が大切に育んできたものを受け継ぎ、豊かにして次の代に託す」という継承の物語があると言いましたね。でも2年前に負けた戦争は、はたして先人や子孫に胸を張れる戦争だったかどうか。死んだ仲間たちは、祖国を守るために勇敢に戦って死んだのだ、と心の底から思えるかどうか。

 結果として負けたから、ではないんですよ。

 祖国の想像力は、政府や軍部によって横領され、浪費され、毀損された。それによって動員された国民の命もまた粗末に使い捨てられた。《ゴジラ-1.0》でも、国家や軍隊に対する根強い不信感が丁寧に描き込まれていましたね。

坂元 だからこそ、傷ついた祖国は自分たちの手で再建されなければならない! いわゆる経済復興や都市整備計画とはまったく違う意味の再建を、自ずと目指すことになるのだと。

井上 まさに。その意味で、海神作戦は、祖国の立ち上げを「やり直す」プロジェクトであり、いわば建国神話の「再演」なのです。

 海神作戦のあの時、国旗や国歌など既存のシンボルには頼れなかった。政府や軍部のせいで濃縮カプセルはすっかり空っぽになってしまっていたのだから。ならば、もっと原点に立ち戻らなければならない。すなわち、「外」から迫りくる国難に対して、「民」が、命令や強制ではなく、自発的に力を合わせて立ち向かうこと。これです。

坂元 それは、「祖国を守るために戦った先人」を再演しながら、傷ついた祖国の再建であり、「子孫にとって勇敢な父祖」の役割も担うことで、命のタスキリレーをつなぎ直すわけですね。これで過去と未来がつながる……!

 ちなみに《シン・ゴジラ》では、「内閣総辞職ビーム」後に国連安保理が熱核兵器の使用を決議して、アメリカが熱核攻撃を行うことになります。その時、臨時内閣で内閣官房長官臨時代理に就任した赤坂秀樹(竹野内豊)と巨大不明生物統合対策本部副本部長となった矢口蘭堂(長谷川博己)との会話では、赤坂は復興時に諸外国からの支援を受けることを含み置いて核兵器使用によるゴジラの完全駆除を受け入れようとします。対する矢口は、政・官・軍・産・学の挙国一致体制による「ヤシオリ作戦」を決行するべく奔走します。

 国内の既存システムを喪失した中で両者とも国の生き残りを考えているのですが、決定的な違いは赤坂プランは「外から与えられるもの」に頼り、矢口プランは「自ら行動すること」に賭けること。特攻文学的には、後者であればこそ「祖国」が立ち上がるわけですね。

井上 たしかに! 《シン・ゴジラ》の赤坂プランは、戦後でいえば「経済復興のために軽武装で防衛を米国に依存する」吉田ドクトリンですね。敗戦国の「日本が生き残る」にはこれしかなかった、という現実主義的な立場とされています。

 それに対して矢口プランは「日本が生まれ変わる」ためのものでした。ということは、《ゴジラ-1.0》の海神作戦は、矢口プラン=ヤシオリ作戦の「起源」とも位置づけられますかね。矢口は1947年の海神作戦を、挙国一致で再演しようとしたと……。

祖国を守るのは「期待の人が俺たちならば」こそ

坂元 《シン・ゴジラ》では「内閣総辞職ビーム」により既存の指導者たち(と会議)が一掃されて、抑圧されていた(であろう)人たちが活躍を始めます。《ゴジラ-1.0》では敗戦と占領により権力と武力の空白状態が作られたことで、民が動くことになります。

 だとすれば、若手や民間は自発的にチームを作って状況打開する力を持っているのだから、下剋上や革命のように「内」から体制転換を図り、祖国を立ち上げることはできなかったのでしょうか。

井上 じつに良い質問です(笑)。それは祖国を守る「担い手」の正統性に関わります。

 まず、担い手の問題ですが、「誰かがやらねばならない」切迫した状況下「他に誰もやる人がいない」というギリギリの必然性のなかで、命懸けの覚悟をもって発揮される自発性においてこそ、正統性が宿るのです。

坂元 我こそが祖国の正統な担い手であると、自ら名乗り出てはいけない?

井上 僭称になりますから。正統性というのは自分で付与することができないんです。祖国を重んずる方には、ここの機微をよく理解していただきたい(笑)。

 この機微は、《宇宙戦艦ヤマト》の主題歌がよく伝えています。1番の「必ずここへ帰って来ると/手を振る人に笑顔でこたえ」と、2番の「誰かがこれをやらねばならぬ/期待の人が俺たちならば」。

 つまり、手を振る人、期待を寄せる人がいて初めて成り立つ。そして、そういう人びとが負託する(1番)のは、ギリギリの必然性のなかで志願した俺たち(2番)に対して、というわけです。

坂元 だとすると、祖国は民主主義制度とは相性が悪いということになってしまいますね……。

井上 たしかに、選挙で選ばれた人たちが話し合って決めたルールに則って運用する、という民主主義的な正統性とは違いますね。「祖国は民主主義に先立つ」といってもよい。「命懸け」と引き換えに、権限や責任の問題は棚上げされますから。

《ゴジラ-1.0》の民間チームによる海神作戦も、民主主義が機能していたら実行不可能です。「どういう権限で指示しているんだ」「メンバーの安全をどう確保するんだ」「失敗したら誰がどう責任取るんだ」……というツッコミにとても耐えられない。

坂元 それ、《シン・ゴジラ》でやっていますから(笑)。つまり、民主主義では、ゴジラという究極の外敵には勝てない。

 今でも海外から日本に上陸する人やモノ、サービスに対して「黒船」と称することがありますね。あれは現状だけでなく、先人から受け継ぎ、未来に渡そうとしているものまでも破壊する可能性があるときに使われる言葉でしょう。実際の歴史ではペリーの黒船来航によって265年続いた江戸時代は終焉を迎えます。たしかに倒幕や開国といった内側からの体制返還も、黒船という外敵・外圧の登場なくしては始動しませんでした。比喩としての黒船も、既存の体制を破壊し尽くすパワーを持っている一方で、既成概念を覆すチャンスをもたらすこともあるし、国内が一致団結するかもしれない。

井上 「ゴジラ=黒船」説ですね(笑)。あのときも、祖国の危機を「日本が生まれ変わる」好機に転じようと行動したのは若手(下級)の武士たちでした。

坂元 たしかに! 

専守防衛の神話的起源としての海神作戦

坂元 黒船だけでなく、「外」からくるものに対して戦後日本は専守防衛に徹してきました。だからでしょうか、ゴジラが突然日本近海に出現すると、あわてて水際作戦を展開するものの上陸されてしまう。そうなって初めて国内は大騒ぎになり、必死で追い出して、二度とやって来ないことを祈念する……という後手、受け身のパターンを繰り返してきました。これはやはり専守防衛と関係があるんじゃないでしょうか。

井上 日本は国是である専守防衛を、対ゴジラ戦にまで律儀に適用しているのではないかと。なるほど。結果的にそうなるのですが、ことは建国神話の再演に関わるので、順を追ってお話してみます。

 時系列を確認しておくと、海神作戦は、日本国憲法施行(1947年)の直後ですが、自衛隊創設(1954年)以前です。つまり憲法九条はあるけれど、専守防衛はまだ確立されていない。占領期であり自国の安全保障の心配をしなくてよかった時期です。

 で、ゴジラ襲来に対して米軍も日本政府も何も対応しない、権力と武力の空白状態に直面する。これは、自分たちの国を誰がどう守るか、自分たちで考えて行動しなければならない、ということです。

 これは2年前までやっていた戦争とはまったく異なる。あのときは、国家に命ぜられるまま動員され、軍部に命ぜられるまま死地に追いやられた。政府と軍隊には不信感を抱いた。だから今度こそ、政府も軍隊も抜きで、祖国を守る戦いをやり直そう、と。

坂元 ま、まさかそれが専守防衛の「始まり」になった……と?

井上 ずばり、そのまさかです(笑)。専守防衛だから正統性があるのではなくて、新生日本がやり直した「祖国を守る戦い」である海神作戦が、その後の戦い方の神話的起源になる。そして、海神作戦は、たしかに「自衛のための必要最小限の戦い=専守防衛」だったのです。

 そう考えてみれば、坂元さんがおっしゃったように、海神作戦以降の対ゴジラ戦が、基本的に専守防衛になっているのも理解できませんか。素性も能力もわからない謎の巨大生物が突然あらわれて、日本の首都をめざして攻め上って来る。それに対して領海・領土を蹂躙されながらも何とか撃退しようと試みますよね。ゴジラの行動圏は戦時中なら絶対国防圏だった南太平洋まで及ぶと考えられますが、兵站戦が伸びきって多くの悲劇を生んだ旧軍の失敗を繰り返すわけにはいきません。

1942年10月、ガダルカナル島の戦いにおいて壊滅した日本陸軍の第2師団

坂元 ゴジラ・シリーズには「原ゴジラ」というべき、「ゴジラ日本(ほぼ)初上陸」設定のものが4作あります。第一作《ゴジラ》と1984年公開の《ゴジラ》、《シン・ゴジラ》、そして《ゴジラ-1.0》です。第一作の対ゴジラ戦は自衛隊が設立されたばかりということもあってか、プラス民間の力(南海サルベージKKや芹沢大助博士(平田昭彦)のオキシジェン・デストロイヤー)で戦います。

 その後の2作は、アメリカやソ連による核攻撃の提案や決定をどう斥けるかもドラマの焦点になります。彼らとしては自国にゴジラの脅威が及ぶ前に駆除しようという先制攻撃なのですよね。そして日本政府はなんとかしてこれを回避し、専守防衛に徹することができたという筋書きです。

井上 アメリカは自国が戦場になることを想定していないから、すぐ核攻撃を提案してくるんです。でも日本の対ゴジラ戦は自国を戦場にする本土決戦(専守防衛)が前提なので、核は絶対使えない。そこで毎回、民間の力を借りながら知恵を絞るわけです。

 現実の日本の専守防衛も、相手国をどう攻略するか、自国に対する脅威をどう除去するかではなく、ゴジラのような「よくわからないけれども攻めてきた相手」を水際でどう防ぐかに注力しているでしょう。

坂元 確かに、現状では敵の軍事行動を事前に察知できたとしても、こちらから先制攻撃を仕掛けることも敵国内の軍事拠点などを戦略攻撃することもできないので、必然的に「よくわからないけれども攻めてきた相手」を自国内で迎え撃ち、敵が国外に引き上げればそれ以上は追撃しないことになっています。

井上 だからこそゴジラは何度も日本にやって来られるともいえる(笑)。

坂元 出禁って言われただけ~ってなもんですよね。

倒したゴジラに敬礼するのは、なぜ

坂元 海神作戦が「祖国を守る戦い」をやり直す、「子孫にとって勇敢な父祖」をやり直すことで建国神話の再演になっている……という何とも壮大な話になりました。

 それで思い出したのですが、ゴジラを倒した後、海神作戦の参加者全員で敬礼していますよね。とても厳粛なシーンでした。でも、ハリウッド映画だったら、全員で抱き合って大喜びでしょう。ハリウッド映画との比較はまた回を改めて論じますが、あの敬礼にも神話的な意味が含まれますか。

井上 じつに冴えてますね(笑)。あれはゴジラに対する敬礼なのですが、小説版でも明確な理由は書かれていなかったと思います。「未来」とか「終わらせる」とか「お父ちゃん」とか、あれだけ言葉を重ねて丁寧に説明してきた山崎貴監督が、最後の敬礼のところは、あえて解釈の余地を残した書き方をしているのですよ。

 艦上の人々も、ゴジラの最期をまるで一枚の宗教画を見るような面持ちで眺めていた。
 もしかすると人間がやってはいけないことを、彼らは成し遂げてしまったのかも知れなかった。
 人々は誰からということもなく、次第にゴジラに向かって敬礼を始めた。
 思えば、この獣は人間の愚かさによって焼かれ、その姿形を醜く変容させられた被害者ともいえる。
 そんな気持ちが彼らに思わず敬礼させてしまったのかもしれない。

『小説版 ゴジラ-1.0』(185~186頁)

 でも、この連載を最初から読んでくださっている方はピンと来たんじゃないでしょうか。第2回で加藤典洋氏の「ゴジラ=戦死者に対する負い目」説を紹介しましたよね。

坂元 ゴジラは戦後社会が「戦死者に正面から向き合ってこなかった」ことの文化象徴であり、だから日本にだけ何度もやってくる、というものでしたね。《ゴジラ-1.0》はまさに2年前に終わった戦争に由来する膨大な負い目(マイナス)に対して、向き合い、「終わらせる」ことがテーマでした。成仏してゆく負い目に対する合掌のようなものだったということですか。

井上 はい。「成仏」という表現が相応しいかわかりませんが、負い目に正面から向き合ったのは確かですよね。そして、ここは合掌よりも、敬礼がふさわしいように思います。

 ゴジラは「外」からやって来た謎の生物ですが、まったくの他者ではなくて――設定上はアメリカの核実験の影響で覚醒ないし巨大化した――加藤説に従うなら、日本社会における「抑圧されたものの回帰」でもあるわけです。

 そう考えると、倒したゴジラに敬礼するのは、とても自然な所作に思えてきませんか。

坂元 私は疑問を覚えたことがなかったですよ(笑)。念のため、原ゴジラ・シリーズでゴジラの撃退時に人々がどう反応したかを振り返ってみましょう。

井上 たぶんゴジラを倒しても日本人は大喜びせずに、神妙な感じになるんじゃないかと思うのですが。実際のところ、どうなっていました?

坂元 第一作では、ゴジラを倒した後には全員が甲板から敬礼しています。確実にゴジラを倒すため、またオキシジェン・デストロイヤーという不慮の産物でありながら水爆を凌ぐ兵器になる可能性がある技術を流出させないために、命を賭した芹沢博士への敬礼も含まれるでしょう。

 でも、ゴジラはまさに先の戦争の惨状を再演したわけで、過去の犠牲者を哀悼する敬礼をせずにはいられないし、水爆実験を止める手立てがない日本は、ゴジラの再来を鎮める祈りを捧げずにはいられなかったのだろうと感じました。

銀座和光ビルに迫るゴジラ(1954年)

井上 なるほど。第一作では倒したゴジラへの敬礼と、ゴジラに殉じた芹沢博士への敬礼。両方の解釈が可能なわけですね。《ゴジラ-1.0》は敷島を脱出させていますから、敬礼がもっぱらゴジラに向けられたものであることは疑いようがない。

坂元 確かに、殉職者(犠牲者)を出さないことが海神作戦の肝でしたものね。

 第一作も「特攻文学の目」で見返すと、2年後には「もはや戦後ではない」と言われるまでに復興させた国を守りたい、過去の戦争の轍は踏みたくない、さらに原水爆のある未来にはしたくないという時間的なつながりがあり、芹沢の死を覚悟した自発的な行動、「緒方、大成功だ。幸福に暮らせよ。さよなら、さよなら!」という最期の言葉から、実は特攻文学要素がしっかり入っていたのだなと思いました。

 84年《ゴジラ》は、冷戦ど真ん中の時代背景で、文字通り米ソの板挟みになりながら非核三原則を守り抜いて、自衛隊に頑張ってもらいながら民(学)の力でゴジラを追い出します。ラストシーンは帰巣本能を利用して伊豆大島の三原山の火口に導かれたゴジラが、人工的に噴火させたマグマに飲み込まれていくシーンです。

 その様子を首相官邸・ゴジラ非常緊急対策本部のモニターで凝視していた内閣総理大臣・三田村清輝は涙を堪えるような感慨深い表情を見せます。おそらく当時の内閣総理大臣だった中曽根康弘をモデルとしていると思うので、総理をはじめ閣僚や自衛隊関係者の中にも太平洋戦争の経験者がいたでしょう。

 私には非核三原則を貫いたことで先人たちの遺志を受け継ぎ、ゴジラを追い出したことで未来に繋げたというふうに見ることができました。脚本の永原秀一(1940年生)は、当時のインタビューでこう語っています。

 映画はドラマチックに終わるべきだというのが、ぼくの持論。あの音楽で泣かせるわけじゃなくて、ゴジラを見ることによって、自分たちの愚かさを思い知った人びとが、がんばらねばと高揚され、自然と涙を流すことになれば、すばらしいんだが……。

『東宝「ゴジラ」特撮全記録』(98頁)

井上 84年《ゴジラ》は、おっしゃる通り、総理大臣の存在感が大きい作品でしたね。ゴジラから日本を守ったことと、米ソの核使用から日本を守ったことが重なり、感慨深かったです。そしてゴジラを倒したのは伊豆大島という日本の領土においてでした。

坂元 本当だ! 都心から海に誘導したので「外」に連れ出したと思っていましたが、都内でしたね。

《シン・ゴジラ》が前の時代3作と決定的に違うのは、ゴジラは日本から出て行っていない! しかも、確実に生きています。ついに日本はゴジラを内包することになってしまったので、敬礼や合掌で見送ることはありません。父祖が残した負い目も、イマココの犠牲も、未来の脅威も、すべて目の前に突きつけられたままになったわけです。

井上 そうでした。何かが終わった、解決したという感慨はなく、ここから始まる、「日本が生まれ変わる」ことへの静かな決意といった感じでしょうかね。でも、ヤシオリ作戦に自発的に参加した米軍関係者は、やっぱり総立ちで抱き合って大喜びしていたと思いますけど(笑)。

坂元 米軍からサポートを志願する兵士が続出したことについて、カヨコ(石原さとみ)は「日本はよっぽど好かれているのね」と言っていましたけど、序盤の対ゴジラ攻撃で1機目のB-2爆撃機が撃墜されたときに残された2機のパイロットが「Pay Back!(報復だ)」って口にしていたから、リベンジ要素もあったんじゃないのと思いますよ。

 そう考えると海外での評価も非常に高い《ゴジラ-1.0》で、特にアメリカの観客にラストシーンの敬礼がどのように解釈され、受け入れられたのかは気になりますね。

井上 たしかに。なんで日本人は倒したゴジラに敬礼するのか……。

 ただ、アメリカ人はもちろんですが、現代の多くの日本人にとっても、あれは不思議な光景だったんじゃないかと思いますよ。

 そう簡単にわかってたまるか、という気もしますが(笑)。

 他の部分はかなり丁寧に説明している山崎貴監督も、ここだけは、きっとそう思っているんじゃないですかね。

坂元 観客には、よくわからないけれど、“刺さって”いるのではないでしょうか。アメリカでも終わらせられなかった戦争、トラウマを伴うさまざまな負い目、自らが作り出した他者ならぬ敵に向き合う時代になっていますから、刺さりやすい土台はできていますよね。

 奇しくも同じ第96回アカデミー賞で最多7部門を受賞した《オッペンハイマー》では、原爆の父J・ロバート・オッペンハイマーを演じたキリアン・マーフィーが7部門の受賞コメントの中で唯一、原爆について言及しました。

私たちは、原爆を作り出した人物についての映画を作りました。そして良くも悪くも(for better or for worse)、私たちはオッペンハイマー以降の世界に住んでいます。この賞は、世界中で平和を維持してくれている人々に捧げたい。

ハフポスト日本版編集部 2024年03月11日

 彼がアメリカ人ではなく、アイルランド人だからこそコメントできたのかもしれませんし、現在の世界状況から受容が可能になっただけかもしれません。それでも、映画大国アメリカを象徴する場で原爆投下について言明されたことは、何かが変わり始めたようにも感じます。

 ちなみに、私がアイルランド国歌を引用したことと、キリアン・マーフィー受賞は偶然の一致です!!

 次回は、創作特攻文学映画《あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。》と、戦争映画ではないけれど特攻文学要素が濃厚な作品を取り上げます。「⑨まだまだある特攻文学映画 前編」をお楽しみに。

著者プロフィール

井上義和:1973年長野県松本市生まれ。帝京大学共通教育センター教授。京都大学大学院教育学研究科博士後期課程退学。京都大学助手、関西国際大学を経て、現職。専門は教育社会学、歴史社会学。

坂元希美:1972年京都府京都市生まれ。甲南大学文学部英文科卒、関西大学社会学部社会学研究科修士課程修了、京都大学大学院教育学研究科中退。作家アシスタントや業界専門誌、紙を経て、現在はフリーのライターとしてウェブメディアを中心に活動中。がんサバイバー。

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