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(小説)池畔のダーザイン⑧

 自分にこんなことができるとは思っていなかった。一人でレストランに行って食事をするなんて。以前のわたしは、レストランどころか、カフェやイートインでさえ一人では無理だった。人目のある飲食店で、一人で食事をする勇気も度胸も図々しさもなかった。
 あのまま瀬戸内の町に張りつき、窮屈で不必要な人間関係にしがみついていたら、多分いつまで経ってもできなかっただろう。飲食店に一人で入るという発想さえ浮かんでこないかもしれない。
 明日には大山を立つので、その前に以前から行ってみたいと思っていた、近くのレストランにランチを食べに来た。マンションから緩やかな長い下り坂を車で走れば、五分もかからない。窓際のテーブルに案内されたが、すぐ隣に八人の女性グループがいるのが気になった。既に食事は終わりかけ、各々が飲み物のカップやグラスを手におしゃべりに興じている。煩いというより、飛沫が気にかかる。
 他にも空いているテーブルがあるのに、どうしてわざわざおばちゃんグループの近くに座らされるのか? 女性のお一人様だと、邪険に扱われるのか? コロナウイルス感染拡大で日本中がピリピリしている時期なのに、もう少し配慮してほしい。同じ窓際でも、駐車場側ではなく、外側に展望テラスもある景色のいい窓際のテーブルにしてほしかった。おばちゃんグループからも五メートル以上離れるし。
 わたしは恨めしい気持ちを抑え、エビフライのタルタルソースかけと温泉卵のついた、日替わりランチを注文した。
 鳥取ナンバーの車ばかりが並ぶ駐車場を眺めながら、それにしても、と思う。この先しばらくはレストランで食事ができなくなるかもしれない。その前に一度行っておこうとやって来たわけだが、あのおばちゃんグループも同じかもしれない。この辺りはまだ緩いけれど、全国的に飲食店への時短営業や休業要請、営業自粛が進んでいるので、右へならえとなる日はすぐそこだろう。
 駐車場の隅に停めた他県ナンバーのわたしの車は、なぜかいつもより輪郭が小さくなり、心許なく見える。それは昼前から急に降り出した雨のせいではない。しだいに強さを増した雨は車のボンネットを叩き、弾き飛んだ無数の雨粒がアスファルトの路面を色濃く塗り変えていく。黒灰に近い色となった路面だけを見ていると、もう夕方になったのかと錯覚する。
 先月大山に来た時も、うっすらと肩身の狭い意識を背負い込んでいるような気がして、スーパーでもコンビニでも産直市場でも入口近くの最短の場所ではなく、入口から離れた隅の方に車を停めるようになった。別に後ろめたいことは何一つないのに。
 同じ中国地方の県なのだから、それほど問題はないのではないか。どちらもまだ感染者は少ないし。感染者の多い関西から来る方が、よほど危険性が高いのではないか? 来られる方にとっては、多い少ないではなく、他県というだけで拒否反応を示すものなのか?
 あっけらかんと県境を越え、あちこち出かけている関西ナンバーの車は多いけれど……。
 こんなことを考えていてもしょうがない。食事を楽しもう。運ばれてきたランチプレートは思ったより見た目がお洒落で、美味しそうだった。
 わたしはランチの写真を撮ってから、食べ始めた。インスタグラム等はしないが、写真はよく撮る。大山暮らしの写真もこの半年で結構たまっている。
 ランチはボリュームもあり、美味しかった。ゆっくり時間をかけるつもりが、夢中で食べてしまった。
 食後のコーヒーを待つ間、おばちゃんグループがまだおしゃべりを続けているのが気になり始めた。とっくに食事は終わっているのに、まだそこにいて、飛沫を飛ばし続けているというわけか。食事しに来たのだから当然とばかりに、全員マスクはしていない。
 しばらく彼女たちを見ていると、そこに、かつてのわたしがいると気付いた。賑やかにしゃべっているのは、六十代半ばぐらいのボスらしきおばちゃん一人だ。福々しいというより醜く肥満した身体を持て余し気味に揺らしながら、大声でしゃべっている。二メートルも離れていないので、彼女の口から飛沫が飛んできそうで怖い。ボスおばちゃんは自分の声に煽られるように、さらに大きな声を出す。
 食後のコーヒーは思ったより薄く、ヒートアップするおばちゃんの声と見えない飛沫が気になり、どんどん不味くなっていく。
 傍迷惑なボスおばちゃんより、わたしの目は一人の女性に吸い寄せられる。わたしからは対角線上のテーブルの端に、ちんまりと申し訳なさそうに彼女は座っている。地味な顔立ち、目立たない服装の四十歳ぐらいの女性で、おばちゃんたちの中では一番若い。ボスおばちゃんの話に大袈裟に相槌を打ったり、媚びるように質問したりするおばちゃんが多い中で、彼女は時折頷くだけで一言も発言していない。まるで透明人間のように存在感がない。
 彼女は、かつてのわたしだ。
 聞きたくもないのに聞こえてくるボスおばちゃんの話から、彼女たちは同じ介護の職場で働いているとわかった。人手不足の現場だろうに、今日は休みなのか? 慰労会か何かやっているのか?
 ボスおばちゃんの話は脈絡も意味もなく、仕事の不満や上司の悪口から、取るに足らない趣味の自慢や芸能人のゴシップまで、壊れた水道の蛇口のように終わりが見えない。どんなにくだらない内容でも、垂れ流されるものに限界はない。
 あんな退屈な話を長々とよく聞いていられるな。誰か一人でも席を立ち、帰ると宣言する人間はいないのか、と思うが、誰もそんなことはしない。できないのだろう。
 おばちゃんたちは浅ましいほどの笑顔を浮かべて、ボスおばちゃんに注目している。いや、注目している振りをしている。存在感の薄い彼女だけは無表情で俯いている。誰一人、ボスおばちゃんの話を聞いていない。ボスおばちゃんの吐き出す飛沫が、徒に不気味にしつこく店内を漂っていくばかりだ。
 わたしはどうしても彼女の顔を見てしまう。表情筋を失ったかのようにその顔が動くことはなく、彼女の感情も思考もつかめない。それらを外に出さないように、悟られないようにしているのではなく、そういう行動が習慣化した結果、能面のような無表情が顔に張り付いてしまった印象がある。
 若い彼女は仕事の経験も浅いので、自分から何かを主張できる立場ではないのだろう。自分の意に反してやりたくないことをやり、従いたくないことに従わされ、日々自分を騙し騙し生きているのかもしれない。経済的な事情で仕事を辞められず、そんな状況に身を置いている内に、自分の本心さえ見失いそうになっているのだろう。
 わたしは彼女とおばちゃんたちから目をそらし、冷めたコーヒーを飲みほした。ランチタイムは終わりに近づき、何組かいた他の客はいなくなった。
 どこにでもいる、と思った。
                             (続く)

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