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自分の歴史を音楽と振り返る②1992〜94

2ヶ月ほど前に、自分の歴史を音楽と振り返る①1986〜1991を書いた。自分史をその頃流れていた音楽と共に振り返っていくというものだが、これが意外と好評。ようやく書けた第2弾は小6から中2ぐらい。この頃つらいことが多かったが、音楽と共に振り返ることで柔らかな彩りになればと願う。

〜受験へのプレッシャーと不登校①〜
ZARD「負けないで」「揺れる想い」「この愛に泳ぎ疲れても」
ZYYG,REV,ZARD&WANDS「果てしない夢を」
大黒摩季「夏が来る」

1992年(小6)の10月。風邪を引いたのか、朝起きて熱が出て気持ち悪かったため、その日は学校を休んだ。その気持ち悪さが「学校に行ったら気持ち悪くなる」という思いにいつの間にか変わっていた。外に出て気持ち悪くなったら怖いから外出できない。親に無理やり学校に連れていかれそうになり電柱にしがみついて泣いた。気持ち悪くなるのがとにかく嫌だ、と。

乗り物にも乗れなくなった。10キロぐらいの距離にある病院にもタクシーで何度も途中下車をし、あげく歩いて連れてかれた。そこの診断は「過呼吸症候群」だった。ストレスのことは一言も話していなかったな…過呼吸症候群の治療はビニル袋を口に当てて呼吸して酸素を吸いすぎないようにする。しかしそれは私には乗り物酔いの対処にしか思えずむしろ嘔吐恐怖の予期不安を煽っただけだった。

そんな状態だったから、学校も塾も行けなくなった。翌年2月には中学受験があったが、これも会場に無理やり連れて行かれた。でも重圧と不安の中の試験時間50分が耐えられるわけはなく、途中で教室を飛び出し保健室受験になったが、それも途中で断念せざるを得なかった。第一志望の学校も、余裕で受かると前に言われていたところも、新しくすべり止めにした学校も、全て落ちた。落ちたことで、周りの目がより一層怖くなった。

卒業式。式の途中にちょっとだけ行って体育館をのぞいた。半年会っていないクラスメイトはすっかり大人になっていて、同時に自分だけ置いていかれてる気がして、さっさと帰ってきた。卒業証書はもらっただろうか。覚えていない。

結局近くの公立中学に入っても相変わらず不登校。しかし担任の先生がよかったのか、夏ぐらいから少しずつ登校するようになる。嘔吐恐怖を連想させる行事(給食、移動教室、社会科見学、体育祭、朝礼)には出ず、1日1〜2時間ぐらい学校にいる形。そんな日を重ねていって、中3になる頃には給食も食べられるようになった。中学の修学旅行も行けるようになった。しかし不登校は後で再び起きるのだがそれはまた別の機会に。

そんな1992〜1994。音楽はうちで苦しんでる時も、テレビの中にも、友達との会話にもいつもあった。この頃ハマり始めたのがZARDだった。初めて買ったCDもZARDで、恋のトキメキが音になった「揺れる想い」。他にも、勇気をくれる「負けないで」、愛のつらさと強さがドラマティックな「この愛に泳ぎ疲れても」などとにかく大好きで、CDは全部買った。同じアルバムを2枚買って観賞用と保存用に分けたり、当時ファン同士で文通する文化があり、見知らぬ人とZARD愛について手紙に書いたのもいい思い出。

ZARDに限らずこの頃はBeingの全盛期。ZARD、WANDS、T-BOLAN、DEEN、KIX-S、BAAD、ZYYG、REV、大黒摩季、MANISHなど、大好きなのは気づいたらみんなBeingという。ポカリのCM、スラムダンクの主題歌など、鉄板なタイアップもみな大好きだった。ただB'zのファンになったのはこの頃ではなくもう少し後である。その理由は中3の合唱コンクールと関係するが、長くなるので次回に持ち越そう。

〜夢中になったラジオ〜
森高千里「私の夏」
UB40「(I Can’t Help) Falling in Love With You」
エイス・オブ・ベイス「All That She Wants」
Snow「Infomer」

ラジオについても触れておきたい。この頃、夢中になっていたラジオ番組が2つある。それは「エモーショナル・ビート」と「赤坂泰彦のミリオン・ナイツ」(いずれもTOKYO FM)である。エモーショナルビートは平日夕方5時ぐらいからやっていた番組で、番組内に電話で参加できるクイズコーナーがあり、当時中2の自分は見事正解し、「ふぉるくすわーげん」のペンスタンドをもらった。ふぉ、ふぉるくす?どこかのバーゲンセールのやっすい商品かと凹んだのをよく覚えている。

ミリオンナイツにもずっとハマってた。曲のリクエストの電話が全然通じなくて、夜9時ぐらいからずっとかけて親に怒られたっけ。「⚪︎⚪︎さんのリクエストです」と自分の名前を赤坂さんに読んでもらった時の高揚感。今も誰かに名前を呼ばれると嬉しい気分になるのは、そこが原点かもしれない。

そんなラジオでよくかかってたのが森高千里「私の夏」だった。航空会社?の沖縄のキャンペーンのCMでもよく流れていた。乗り物に乗れない自分はうらやみながら、沖縄のウキウキ感を音楽で楽しんでいた。また当時の洋楽、UB40やエイスオブベイス、Snowもよく聴いた。当時聴いていたCDラジカセ(まだカセットだった)の形も思い出す。

〜最後に〜
氷室京介「VIRGIN BEAT」
布袋寅泰「サレンダー」

最後に、この頃の音楽でどうしても触れておきたいのが2曲ある。1つは氷室京介の「VIRGIN  BEAT」1994年8月末にリリースされたこの曲。Kiss Meで氷室さんのことは知っていたが、これを初めて聴いた時、なんだこれは…!?と感じた。中2の自分でもわかった。とにかくロマンティックでダイナミック、それでいて漂う色気。氷室さんはこの曲とWILD ROMANCEが自分にとって双璧である。

そして布袋さん。この曲の前の「さらば青春の光」もテレビドラマの主題歌だったから聞き覚えはあった。「サレンダー」でどうしても触れておきたいのは、涙も出ないほどの悲しみを抱き、拳でガラスを割った時に流れる赤い血と痛み。そしてかき消せない孤独を歌っているということ。これが当時、そして今の自分にも通じるツラさに真正面から刺さってくる。しかし、その苦しみを布袋さんはギターサウンドに乗せて昇華しようとする。思春期にこの曲に出会えたのは、ただただ幸運だった。


という1992−1994(小6〜中2)。次回は中3での合唱コンクールのプチ?騒動や、初めて女性と付き合ったこと、自分のセクシュアリティの目覚めについて語れたらと思う。

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