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カウンセリングと施設と教えるということ|自分の歴史を音楽と振り返る⑥1999−2000

1998年の音楽シーンは、宇多田ヒカルや浜崎あゆみなどの女性アーティストの台頭、GLAYやラルクの全盛期、槇原敬之の逮捕、サザン「TSUNAMI」やだんご三兄弟のヒットがあった。そのころ自分は大学に入学したが、嘔吐恐怖症のため飲み会が怖く、周りに打ち明けることもできずに孤独に。また自身がゲイであることに絶望していた。そんな中自分はどんなふうに生きていたのか。音楽と共に振り返ってみる。


カウンセリングと施設入所 
小松未歩「I 〜誰か…」

ゲイである自分は、結婚ができない。奥さんや子供といった「家庭」を築くことができない。親に孫の顔を見せることができない。自分の老後に支えてくれる家族はいない。

小5で自分がゲイであることを知り、中学で自分の将来を悲観し始めた私は、いつの間にか「20歳までに人生を終わらせよう」という思いが頭にこびりついていた。そして大学に入り明らかな孤独となったことで、そのことは避けられない未来だと思った。

それでも、なんとかしたいという自分もいた。大学の学生相談室があることを知り通い始めた。相談室では、秋田にある不登校・ひきこもりの若者を対象とした宿泊型教育施設の体験入所を勧められた。藁をもすがる思いで、勇気を出してそこに1週間行くことにした。

パニック発作と闘いながら新幹線と電車を乗り継いでその施設に着いた当日の夜、歓迎会と称した飲み会が行われた。私の横に座ったのは精神保健指定医である院長。お酒を飲んで酔った院長は、私にクダを撒き始めた。やれ酒が飲めないのは弱いからだ、などと言って、なぜか初対面の精神科医が酔っ払って、嘔吐恐怖で発作の起きている私に怒鳴って説教を垂れた。

やがてなんとか逃げ出して宿舎に戻ったら、発作と嘔吐恐怖が怖くてガタガタ震えながら、こんなに自分は泣くのかっていうぐらい涙が止まらなかった。それが決定打となり、その施設で心を開くことは全くなく、ただツラいだけの1週間だった。また精神科医への不信も生まれた。そして不信はこの施設を紹介したカウンセラーにも向くことになる。

そんな頃よく聴いていたのが小松未歩だった。小松未歩は、デビュー曲「謎」がコナンのOP曲に起用されヒット、その後もめざましテレビのテーマ曲「チャンス」などを発表。作詞作曲を自分でこなす、メディアに一切出ない、抑揚の極めて少ない声色、そして時々歌詞に表れる荒廃した世界観。例えば「I 〜誰か…」では

誰か ここに
居る意味を教えて
響く鼓動も ムダに思える
心 躰 揺さぶられることが
煩わしくて このまま消えたい

と歌っている。小松未歩の好きなところは、時に安易に救いの光を差し出さない点にある。暗いけど歌の最後に前向きになるということは少なく、最後まで暗いままだ。これが当時の自分(今もそうだが)に寄り添ってくれていると感じ、気軽に耳に入ってきた。他にも「涙」などが自分のお気に入り。

先生と呼ばれて 
B'z「Calling」「Brotherhood」
椎名林檎「ギブス」

そんな中でも、大学1年から始めた塾講師のアルバイトは続けていた。やがて大学を不登校になり、サークルも辞めた私には時間ができた。ひきこもりで外に出るのは塾だけだったし、教えるのは好きだったからと思い、気がついたら週6出勤、月20万以上稼ぐような生活になった。塾全体の最優秀講師に選ばれたこともある。表彰式は六本木のベルファーレ(懐かしい!)だったり、東京湾を巡る船上だったり。当然の流れのように塾の主任にもなり、仕事が終わらず塾に泊まり始発で帰ることも当たり前となった(今となっては考えられないが)。

教えることは楽しい。それをもう少し細分化すると、私の場合は「生徒が成長することを見守ることができる喜び」「誰か(主に生徒)に必要とされる喜び」になるのだと思う。子供を持つことはできないけれど、成長を見守る(一緒に成長できる)ことは体験することができる。もうすぐ人生をやめようと思っていたのに、誰かが自分を必要としてくれる。それが、「20歳で人生を終わらせよう」と思っていた自分の決断を、いい意味で鈍らせることになった。

一方で、塾に勤めることは代償も伴った。うれしいあまり、ハードワークなことにも気づかない昼夜逆転の生活は気分がどんどん悪くなっていったし、103万の壁を突破してしまい扶養控除から外れてしまった。また、塾の研修合宿として、八ヶ岳でアクティビティ型のプログラムにほぼ強制参加させられた。そこでもやはり飲み会があり、一気飲みをたくさん目にしては発作で苦しみ、行き帰りのバスも含め、あれで相当疲弊した。(プログラムそのものは「愚痴を言わない」というテーマそのものであり、自分で未来を切り拓く研修としてはとてもいいのだろうが、私にはあのような熱を帯びることはできなかったし、それどころか心に大きな傷を残すことになった)

塾の夏期講習で連勤が続いた中、初めてB'zのLiveに行った。「B'z LIVE-GYM '99 -Brotherhood-」だ。8月の終わりに横浜国際総合競技場(現:日産スタジアム)で開催、その時は途中から大雨が降り、終わる頃にはずぶ濡れだった。その模様は円盤に収録されている。圧巻だったのは「Calling」と「Brotherhood」。どちらも会場が一つとなって自分も全身で声を出した。音波と熱気が快感に変わったあの瞬間は今でも一番のライブとして記憶に刻まれている。

そしてもう一つ触れておきたいのが椎名林檎「ギブス」だ。メロディーはきれいなロックバラードなんだけど、椎名林檎の声が断末魔のように(褒め言葉)響き渡る。そう、まるで地獄の底で苦しそうに上げる声が、当時の自分の苦しみを代わりに叫んでくれているような気がしたのだ。なにかぶっ壊してくれそうな歌。自分の抱えるもどかしさはそこに光を見ようとしていたのかもしれない。


ということで、「20歳までに人生を終わらせよう」というのは行動に移すことはなかった。それは「20歳を超えても生きている」という呪縛になって新たに自分を苦しめることとなる。それでも、その当時の音楽があったから今も生きているのかもしれない。

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