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欅坂から櫻坂へ 移り変わるいまの想い

櫻の坂の下には欅が植わつてゐる!

2020年10月13日を以て欅坂46は幕を閉じ、10月14日から26名の若葉は櫻坂46として歩み始めた。

小林由依の誕生日(10月23日)、公開から時間も過ぎたなか、映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』を鑑賞してきた。
今回は映画への感想の意味も含めて欅坂に対しての想いを書きたい。これは欅坂の全活動に対する私の感情の記録でもある。

※映画『僕たちの嘘と真実 Documentary of 欅坂46』のネタバレに相当する内容が含まれますので、鑑賞されてない方の閲覧はご注意ください。

私はデビュー当時から欅坂46を応援していたが、知識量も熱中度もほどほどでそこまで近くで見ていたわけではないことにはご留意いただきたい。

具体的には、
 ・ライブ・握手会の参戦はLAST LIVEの2daysのみ
 ・欅って、書けない?(けやかけ)はだいたい見ている
 ・把握している楽曲はシングル曲すべてとカップリング・アルバム曲をいくつか
 ・メッセージは取っていない、ブログは数えるほど読んだことがある
くらいのレベルである。(本稿を書く上でもろもろ調べてはいる)
推しメンは小林由依森田ひかる、好きな曲は『避雷針』だ。

そんな私が知っている範囲の知識を元に、欅坂へのいまの想いをつらつら書いていこうと思う。

みんなの認識とは異なることも多いかもしれない。また自己矛盾や立場の不安定さ、冗長すぎる表現などが多分に含まれていることはご容赦願いたい。もしこの記事に対して意見や指摘がある場合はTwitter(@Soh_Sakamichi)までリプかDMをいただけるとありがたい。

欅坂オタクの人にとっては前半はすでに知っている内容がメインになると思うので、意見だけなら読んでやるよという方は破壊の見出しから読んでいただければと思う。

突如として手にした栄光

2015年8月、乃木坂46の人気が高まるなか、坂道シリーズの第2弾として欅坂46の21名が活動を開始した。
(実際にはメジャーデビューまでに離脱者が2名いて、長濱ねるは途中合流だが詳細は省略する)

翌4月に発売された1stシングル『サイレントマジョリティー』は、坂道シリーズの第2弾というポイントとともに、楽曲の強いメッセージ性と平手を中心とした迫力のパフォーマンスで話題を集めた。当時1位の初週売上26.2万枚を記録するなど世間が注目した。

私はこの楽曲が彼女たちのその後の歩みを決定づけたと考えている。

私もそのサイレントマジョリティーに魅了されたうちの一人だ。
私は幼少期から姉の影響でモーニング娘。をよく見ていた。その後つんくファミリー、ももクロ、ラブライブ、K-POP、AKB48グループなどさまざまなアイドルに触れてきたが、欅坂46に対する感情はいままで出会ってきたアイドルに対するそれとは全く違った。

従来の私のアイドルに対するイメージは、「かわいい」「キラキラしている」「楽しい」「初々しい」「一生懸命頑張っている」「応援したくなる」というものだ。いままで見たどのアイドルもそれらのイメージ像から大きく外れることはなかった。

一方でサイレントマジョリティーの楽曲・楽曲のなかに含まれる反骨の感情は自然と私の胸を打ち、初々しいながらも無表情で訴えかけるような表現に惹き込まれた。特に「大人たちに支配されるな」という一節に、小さい頃から普通が難しかった私は強く共感した。

だが共感とともにまるで心のなかの核心をつくかのような歌詞をアイドルが歌うことにかなりモヤモヤしていた。いままで感じたことのない複雑な感情だった。彼女たちは私にとって、アイドルであってアイドルではなかった

サイレントマジョリティーの強烈なメッセージ性は若年層を中心に瞬く間に話題を集め、この時点で欅坂は自分たちの心の内を表現してくれる代弁者として一瞬にしてグループカラーが出来上がったようだった。

しかし、サイマジョ以降の楽曲も含めた強いメッセージはメンバーにとって共感できるものではあったものの、アイドルに憧れて集まった普通の少女たちの心のなかから出てきたものではなく、メンバーが消化して表現することに苦悩してきたであろうことは想像に難くない。この色が彼女たちを人気にし、彼女たちを苦しめつづけたのだろう。

その後、欅坂46は『世界には愛しかない』『二人セゾン』をリリースし、強いメッセージ性を持って愛や切なさを歌ったものの、サイレントマジョリティーの衝撃を超えてくることはなかった。

その次にリリースされた”孤独”の色が強い4thシングル『不協和音』で、感情の代弁者という欅坂のイメージは鮮明な色へと変わったように思う。

歌詞を見るとそのなかに”孤独”や”反骨”といった負で不安定な感情が含まれていることがわかる。その楽曲にいる”僕”はサイレントマジョリティーとかなり近いように思える。私はこの楽曲に強く”欅坂らしさ”を感じた。欅坂がどういうグループなのか答え合わせをできたような気分だった。

他人と一緒が嫌だと思ったり、疎外感を感じたことがある大勢の人たちの心はこの曲によりさらに惹きつけられた。
恐らく運営陣もこれが欅坂の表現するべきものだと確信したことだろう。奇妙な結末が待ち受けていることも知らずに。

20人のアイドルと1人のアーティスト

そんな欅坂の中心にいて、欅坂を語る上で絶対に欠かすことができないのが平手友梨奈だ。彼女は実質ラストシングルの8thシングルまでセンターを務めた。

異質なアイドルグループのなかで彼女は1人さらに異質な存在であり、表現力が飛び抜けていた。
歌詞の世界に深く入り込み、歌詞のなかの”僕”に取り憑かれるようにパフォーマンスを行っていた。どの楽曲においても彼女は21人の真ん中で文字通り異彩を放っていた。

恐らく欅坂を見てきた多くの人がそう感じただろう。”平手信者”という言葉が生まれたように、あまりの求心力に宗教的なほどの人気を集めた。

秋元康含めた運営も平手の表現力に対して絶対の信頼を置いており、脱退するときまでセンターを降ろされることはなかった。もしかしたら運営はセンターを変える勇気がなかっただけのかもしれない。小林由依推しの私もセンターは平手から変わることはないだろうと思っていた。それだけセンターの地位は揺るぎないものだった。

平手自身は楽曲に真摯に向き合い全身全霊でその世界観を表現する一方で、欅坂のなかで自分だけが注目を集めることを嫌っていた。自分が目立ってしまうことで他のメンバーが影に隠れてしまうことが彼女の心を痛めていた。平手はメンバーに甘えもするし仲間を想う優しい少女でもあった。彼女は仲間のために何度も欅坂を退こうとしていたことがうかがえる。

平手は”秋元康が作る自分が主人公の世界””現実”の狭間で彼女は行ったり来たりしていたのだろう。
いつからかライブなどを欠席することが増えた平手だが、彼女は望むことのない方面に向かって伸びたレールの上から車輪を外すのに必死にもがいていたのかもしれない。

平手以外のメンバーは良くも悪くも普通の女の子だったように感じる。もちろんみんながみんな同じ能力だとか同じ考えだとかそういう話ではないが、楽曲が作り出す世界観や平手の表現を前にして為す術がなかった。

楽曲と向き合い、平手と向き合い、なんとか最高のパフォーマンスを見せようと努力しつづけたメンバーもいるだろう。それでも「平手が何を考えているか理解ができなくて触れることができなかった」と語ったメンバーがいるように、ただ立ち尽くして平手が入り込んでいく世界をボーッと見ているように見えた。

平手の表現力に彼女たちは恐怖を感じていたのではないだろうか。歌詞のなかの僕に憑依され深く世界に入り込んでいった平手は全く別人で、その豹変ぶりに怯えていた。そして、欅坂の主人公は平手だとメンバーも思っていたし、平手を差し置いてセンターになれると思うメンバーはおらず、自分がセンターになったとしてその表現を超えられないことが不安にもなっていたようだ。

映画でも表現されていたが、平手がライブを欠席したときにはセンター不在のパフォーマンスに気力を失っていたメンバーもいたし、代理センターに戸惑うメンバーもいた。みんなが平手以外のセンターを必死に敬遠していたようだ。

運営から見てもファンから見てもメンバーから見ても、欅坂は”平手とそれ以外”という構図ははっきりとしていた。

破壊

『不協和音』を皮切りに欅坂は急速に坂を転がりはじめた。
いつからかは定かではないが、2018から19年にかけて傍から見ていただけでも欅坂は明らかに空気が変わっていた。

平手がライブやテレビ番組に出演しないことが増えていった。けやかけを見ていても覇気が感じられなくなった。私もなによりも先に欅坂に対して「大丈夫だろうか?」と感じるようになり、『避雷針』以降楽曲を聴く機会も少なくなっていった。そして、真偽が定かでない良くない噂を頻繁に耳にするようにもなった。

メンバーの心理状況も不安定になり、メンバー間の関係もちぐはぐになっていたようだ。

2019年2月に発売された8thシングル『黒い羊』を最後に、改名する翌年10月までの約1年半の間、シングルCDが発売されることはなかった。

欅坂を崩壊に導いた要因は大きく3つあると考えている。
それが以下の3点だ。

・楽曲が持つ強いメッセージ性
・下積み時代のない頂点レベルの人気
・グループのアンバランス

まず1つ目は、楽曲が持つ強いメッセージ性だ。楽曲・歌詞に含まれる強い言葉が彼女たちの心を着実に蝕んでいったのだと考える。
その中でも、サイレントマジョリティーを始めとして、”孤独”や”反骨”といった負の感情・攻撃的な言葉をまとった楽曲が欅坂46の顔となっていた。
作詞の天才である秋元康が繰り出すその言葉たちは、ただアイドルを目指してあまりにも強烈的な言葉だったと思う。

日本には言霊という言葉がある。言葉には魂が宿っていて、発した言葉が現実に影響を与えるという考え方だ。私はこの考え方に強く賛同する。特に強い言葉は発した人の心を支配し、その方向へ引きずり込むのだ。

一度言葉を発しただけでも、思い浮かべただけでも心や行動に影響するのに、表現するために噛み砕いていて理解し、歌って演じてきた彼女たちには想像できないほど言霊が強く刷り込まれていったことだろう。

楽曲に真摯に向き合っていたメンバーはもちろん、ただ歌い続けただけでも心を不安定にし行動が歪んでいったのではないか。
彼女たちの望むところとは裏腹にあらゆることに反発し、お互いも反発しあっていたのだと思う。

グループのなかでも孤独になっていった彼女たちは、ずっと心の拠り所を必要にしていたのだろうが、それが何人かのスキャンダルなどで世間の話題を集めてしまう方向に現れた。噂が噂を呼び、確証ないほど拡散していった。外からも厳しい目が向けられてしまうようになった。
(ここではアイドルの恋愛の是非については触れないでおく)

2つ目が彼女たちの活動に下積みと呼べる時代がなかったことだ。オーディション合格から1年弱のデビュー当時から前例がないほどに売れてしまった彼女たちは、空中に放り出され足が着かぬまま浮遊することになった。

一緒に乗り越える目標、立ち向かう敵がいない彼女たちは、どこに向かおうかわからぬまま、あちこちを彷徨いながらバラバラに歩みを進めた。しかし共通意識がない組織はとても不安定で簡単に崩れ落ちる。

しかも乃木坂の人気がかなり高いなかデビューし、異次元な世界観の楽曲が与えられた彼女たちの成功は、はじめから約束されていたようなものだ。自分の努力の結果とは別に得た成果は人は大事にすることは困難だ。デビュー後の欅坂にはモチベーションといえるものがないか、あっても弱かったと思う。

秋元康の“欅坂はすべてを破壊するグループになる”という言葉は漠然としすぎていた。不安定な組織に不安定な目標が与えられたことで、結局は欅坂自身が破壊されてしまった

これはあらゆる分野で頻繁に見られる現象だと感じる。
個人ではあるが、スポーツでいえば特に斎藤佑樹投手(現・日ハム)がわかりやすいかもしれない。彼は2006年の甲子園で決勝再試合で田中将大投手(現・ヤンキース)と投げ合い、優勝した投手だ。

当時はハンカチ王子とあだ名をつけられ連日報道されるなど大フィーバーだったことを覚えている。大学入学後もカメラに追われ、毎週のようにスポーツニュースで取り上げられるなど、メディアに振り回されていたのを痛々しい目で見ていた記憶がある。
彼は大学卒業後プロに入って10年間、目立った活躍もすることなく燻ったままである。高校時代からの注目に浮き足立ち、苦悩してきたのだろう。

他にも2世タレント、2代目社長、人気アイドルの新期生など実力以上に注目を集めてしまったときに起こりやすいように思う。
努力や実力とはアンマッチした早くに得られた評価に慢心してしまうのかもしれない。そのような境遇に会うことはただただ不運である。

他人からの注目は自分の意志で簡単に取り払えるものでもない。乗り越えるのは至難の業だと思うが、それを乗り越えて成功している人は相当なメンタルの持ち主だろうと思う。

欅坂は早くから集めてしまった注目という重圧を乗り切る軸を持ち合わせていなかったため、耐えきることができなかったのだろう。

3つ目がグループのアンバランスさだ。つまり、平手とそれ以外という構図のことだ。

平手が完成されたメンタルであればそれでもよかったのかもしれないがそうではなかった。観るもの全てを惹きつける類い希なる表現力とは釣り合わないほど彼女の心は繊細だった。彼女はステージに立つのを何度も拒み、“僕”になることから何度も逃げ出した。

そんななかでも誰も彼女を助けることができなかった。表現力に差がありすぎたばかりに、逆にみんなが平手を頼ってしまっていた。欅坂は平手そのものになっていた。そうすれば平手が崩れたら欅坂自体が総崩れするのも当たり前だ。

しかし、欅坂には平手以外のメンバーがいた。実際は21人でそれぞれが必死にやって欅坂が成り立っていた。横並びでスタートしたはずの自分たちの存在意義に悩み、平手の出る出ない、やるやらないに振り回され、彼女たちの心は疲弊していったのだろう。

歪な構造によりメンバーは自由に表現することができずに、やり場のない反発が各々の心のなかで渦巻き、どこかギクシャクした空気を生み出したのかもしれない。

そんななかでグループとして存続するためにはメンバー同士がお互いにカバーしあえる構造が求められていたように感じる。
欅坂もそのアンバランスさに怯えることなくさまざまな形を試す必要があったのかもしれない。

主にこれらの3つ(楽曲・環境・人)の要因で欅坂は崩壊への道を辿ったのだと私は考えている。つまり『サイレントマジョリティー』が生まれたときからこうなる運命だったのだといま思っているわけである。欅坂にはその運命を押し返すだけの力がなかった。

2020年1月23日に織田奈那、鈴本美愉の卒業とともに平手友梨奈が脱退することが発表された。
平手率いる欅坂46の歴史がそこで終わった。

その後、あえてセンターを置かないフォーメーションを採用した配信シングル『誰がその鐘を鳴らすのか?』をリリース[*1]し、同年10月12、13日に配信ライブであるTHE LAST LIVEを2日間行い、欅坂46は幕を閉じた。
([*1]2020/10/29 語弊を招く可能性がある表現があったため記載を修正)

改名前までに9人のメンバーがグループを離れたが、その多くが決して喜ばれるような離れ方ではなかった。
実に奇妙な結末だった。

その言葉は嘘か真実か

私が欅坂時代終盤のインタビューやテレビ番組の受け答えをみて思うのは、メンバーたちが恐る恐る発言する姿だ。特にグループの進退に関する質問となると、まるで言論統制されている北朝鮮を観ているような気分になる。

明らかに本心を語るのが憚られているのがわかってものすごくモヤモヤする。歌詞のメッセージとあべこべなのだ。例え周りと違くてももっと“自分の”グループだと思って胸を張って語ってほしい。

あと地上波で話すときに都度マイナス面を前面に出して話すのは控えられないものだろうか。視聴者のほとんどは楽曲を知ってるくらいの認識だし、ライト層のファンたちに「この人たち大丈夫かな?」と思わせるのは悪手のようにも思える。

平手も脱退時にSCHOOL OF LOCK!で「その件について今は話したくない」と言っていたり、映画で小林が「みんなと思っていることが違うと思うから今は話したくない」と発言していたりしていた。

だが、感謝とか単純で当たり障りのない言葉で終わらせずに、自分が話したいことを話せるときが、本当に櫻坂に生まれ変わるときだと思う。これは櫻坂内部だけで会話するだけでももちろん意味があるが、実際にどこまで向き合った会話がなされているかはわからない。

私は10月12、13日の2日間、はじめて欅坂のライブを通して鑑賞した。
練り込まれた演出、配信ライブならではのステージングやカメラワーク、27人の渾身のパフォーマンスに感情が高ぶった。

映画をみたあとでこそ、平手のライブを生で見てみたかったとは思ったが、ラストライブ自体は平手がいない欅坂でも十分に楽しんでいた。終わったあとはもっと欅坂のパフォーマンスを見てみたいと思った。

欅坂から得るべき教訓

数奇な運命をたどった欅坂から私たちが何を学ぶことができるのか。
メンバー・運営・ファン
の観点で私なりに考えてみた。

まずはメンバーとしての観点だ。

グループ内でも平手は神格化されていたようだ。前に出たいと思う人間はいてもあまりの神格化ぶりに和を乱すことができなかったのかもしれない。それでも自分の言葉を発さなくてはいけなかった。自分を表現できない状況は歌詞のなかの”僕”のように強い反発として現れていったように思う。

そして自由に発言・表現できていない様子は周りに不仲を疑わせた。あれこれ噂されることでさらに発言が難しくなり、負のスパイラルに陥っていたのではないか。

聖徳太子が制定した十七条憲法に出てくる「和を以て貴しとなす」という言葉をみな知っているだろう。たぶん多くの人が”みんな仲良くしなさい”という意味に捉えがちだと思うが、本来の意味は、”派閥などを作って意見の対立を深めることなく、納得行くまで議論しろ”という内容なのである。

ひとりまたは一部が物事を決めて誰も何も言えずに黙って従うのではダメということだ。集団には”和”が必要なのである。1400年以上も前から日本の偉人が言っていたのだ。

ここから得るべき教訓は、自分が納得できてないことがある場合は、自分の意見を発信し、納得できるまで議論したり、相手を理解しようと努めるほうがよいということだ。
またどうしても相容れない場合は可能であればそっと離れるのも手だと思う。私たちの普段の生活で外野というものは存在しないが、集団と付き合っていく上では心しておいたほうがいいと思う。

楽曲の世界を表現するために身も心も粉にしてパフォーマンスする彼女たちには、心の拠り所が必要だった。しかし、すり減っている状態ですがりつくものには盲目的になりがちで冷静に判断できなくなる傾向にある。

欅坂はスキャンダルが目立った。悩みを抱える年頃の女の子が彼氏を作ること自体はなんら不思議なことではないが、注目されるアイドルがまともに隠せない状態で異性と付き合うという選択はあまりにも代償が大きすぎた。

ここから考えられるのは、心が健全なときこそ心の拠り所を作っておくべきではないかということだ。必死に打ち込める趣味でもいいし、頼れる仲間・親族との関係、必死に頑張るアイドルでもいいと思う。

心が挫けそうになったときに心を支えてくれる、不安定になったときに軸に引き戻してくれるような存在をなにかが起きる前に準備しておかなくてはいけない。

次に運営の観点だ。

欅坂を見てやはり他人は期待通りにはならないのだなと思った。

秋元康は平手を中心とした欅坂に対して、アイドルひいては表現の概念を破壊するという壮大なビジョンを抱えていた。しかし、グループの色がはっきりしたあと坂を転がり落ちていった。

その凋落を前にして運営はどうすることもできなかった。さまざまな手を打ったのだろうが凋落を止めることができなかった、というほうが正しいのかもしれない。ここで運営はこれまでの欅坂に対する概念を覆す手を打たなければならなかったが、恐れをなして向き合いきれず、そこまで至らなかったのだろうと考える。

管理者は活動をそっと見守ることも大事だが、管理対象が明らかにピンチのときには絶対に護るくらいの覚悟を持たないといけないということが言えると思う。ここでは運営だけでなく保護者や指導者、管理職などをイメージしていっている。

私はまだその立場になったことがないが、この点で優れている方々を見てきた。彼らはとても尊敬できるし、愛をもって守られることで自分も挫けていられない、しっかりやろう、なんとか頑張ろうと思えていたので見習っていきたい。

話は変わるがホメオスタシスという言葉がある。ホメオスタシスとは「同一の状態」を意味する言葉で、生物学的には、生物の内部環境を一定の状態に保ちつづけようとする性質のことを指す。

正確には免疫や自律神経、内分泌の働きに成り立っている状態のことを表している。ウイルスやストレスに曝され生体の恒常性が乱されそうになったときに、免疫や自律神経により身体の状態を臨機応変に変えてある一定の状態を保つような仕組みだ。

しかし、生体を広く考えてみても恒常性を保つために常に変化をしていることがわかる。人は恒常性を保つために食料を摂取するし、排泄・代謝もする。つまり新陳代謝している。同じ状態を保つために変化するのだ。食料を取らないと栄養が足りず倒れるし、筋トレをしないと筋力が衰え、頭を使うのを止めると脳が衰えていく。

心理学にもホメオスタシスという言葉が使われている。心理学では「いまのライフスタイルや環境をなるべく維持しよう」という心理を指す。この心理的傾向は生活に安定をもたらすが、新しいことに挑戦しようとしたとき行く手を阻む。新しい習慣は身につきにくく、いつもと違うことからは逃げ出したくなる。
だが実際には生活や能力、心身においていい状態を保つためには積極的に適切な変化を取り入れ続けないといけない。

欅坂にはその変化が乏しかったように思う、安定・安心を追い求めるあまり変化を恐れ不安定になっていったのだ。そして結局良くない方向へ転じてしまったのである。

私たちはここから、不安定なまま変化を拒み続けると結局は凋落してしまうことが教訓として得られたのかもしれない。いい状態を保つため、手に入れるため、次に進み続けるために必要な変化は多少苦しくても受け入れていきたい。

最後に我々ファンとしての観点だ。

アイドルに限らずだが、私たちはどうしても表に現れる部分しか見ることができない。
コアなファンであればメッセージなどでメンバーのある程度深い部分まで知ることができるが、一般のファンにとってグループカラーは曲のイメージが支配する。楽曲やパフォーマンスを好きになった人は余計そのフィルターを通してメンバーを見てしまうのだ。

さらに裏側も含めてそのフィルターを通して想像してしまう。そこにインパクトのあるもっともらしい話が一旦現れると、ガンのように脳裏にこびりつき本当にそうなんだろうという気持ちが支配してしまう。

そのなかに含まれているものが事実だと判明してしまうと、すべてに信憑性を感じてしまう。良くない噂はすぐに大きくなり、本人たちの元へ届いて悩ませたうえ、身動きが取りにくくなってしまう。

似た事例でいうと8.6秒バズーカーの顛末が記憶に新しい。2014年頃、彼らはラッスンゴレライという歌ネタの爆発的なブームにより一躍時の人となった。
しかし、誰も意味を理解できないラッスンゴレライは原発と関係があるともっともらしい根拠とともにこじつけをされ、一気に陰謀説が盛り上がってしまった。彼らは静観していたが、ほとぼりが冷める頃には燃えカスとしてくすぶるだけとなってしまった。

結局ラッスンゴレライの陰謀論は誰かが巧妙に仕立てたデマカセだったが、このように噂はいとも簡単に1人の人間・組織を闇の底に陥れることができてしまう。話の真偽の見極め、真偽の定かでない情報とどれだけの距離をとりどれだけ入り込むかは非常に難しいところだが、感情を大きく揺さぶる情報は慎重に扱わなければいけないと思った。

私が書いているこの記事だってイメージで語ってる部分が多く、どこが正解かはわからない。それでも自分が知ってること、見てる印象をもって書くしかない。それはどうしようもないと思っている。
それが許されなかったら誰も表現をすることを許されないのと同義になってしまう。

そんななかでも他者を尊重し、新しく事実が発覚したときにも問題が生じないような表現で記すことは心がけていきたい。真意が不明な事柄については当事者の言葉にも耳を向ける姿勢を持っていきたい。

しかし、いろいろな恐怖と戦うことになっても、自分の意見を持ち、表現することを恐れずに生きていきたいと思っている。

これは自分への戒めの気持ちもある。これらのことをやれと言われてできたら誰も困っていないのかもしれない。私もまともにできないだろう。しかし、欅坂を通してリアルに見てきた。生々しく受け取ったこの歴史を胸に留めて、生きていく上で少しでも役立てていけたらと思う。

櫻の蕾

櫻坂46の1stシングル『Nobody's fault』が欅坂46 THE LAST LIVEで初披露された。

楽曲のタイトルや歌詞にも含まれる”誰のせいでもない”は秋元康が書いた言葉だが、誰から誰に向けてのメッセージか真意は不明だ。
だが、私には欅坂の全活動に対するアンチテーゼのように感じた。
秋元康自身が責任逃れするような言葉にも受け取ってしまえた。

私は欅坂の活動に対する答えがないまま櫻坂へ改名したと思っている。
私は『Nobody’s fault』に欅坂の楽曲ととても近いものを感じた。表か裏かわからない強いメッセージを含んでいた。パフォーマンスも同様である。

私たちはすでに平手がいた欅坂を見てしまっている。同じ路線でそれを超えることはおそらくないような気もするが、このまま同じ路線を追い求めるのか、または違う色を見せてくれるのか。しっかり欅坂を見返して選択していかなくてはいけないのではないか。

私はどう進むとしても楽しみに応援しようと思う

冒頭で書いた一説は、梶井基次郎の小説『櫻の樹の下には』の冒頭「櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」をもじったものである。

これは桜があんなにも美しく咲くのがどうにも信じられれず、下に埋まっている死体から栄養を吸収しているからに違いないという気持ちから記された言葉だ。

櫻坂に関してはまさにその通りで欅坂という壮絶な過去の上に成り立っている。
まだ先はわからないが、櫻坂には欅坂を超えるほどの活躍をして、いづれ誰かが「櫻の樹の下には屍体が埋まつてゐる!」と思ってしまうほど美しく強く咲いて欲しいと願うばかりだ。

しかし私は、その坂の下に欅が植わっていることを決して忘れない。

さいごに

はじめてのnoteで長文のこういう文章を書くこと自体もはじめてで、苦悩しながら書きましたが、構成も文章もまとまっておらず、薄く稚拙な文をダラダラ書く形となってしまいました。

しかし、自分の欅坂に対する想いをそれなりに書けたと思うので、あとから見返したときにこういうこと考えていたっけと思い出せればいいなと思ってます。

読んだ方がいれば、最後まで読んでいただきありがとうございました。

秋元康は21枚のキャンバスで負のアートを作り上げようとした。
でも、そのキャンバスは普通の女の子たちだった。
それが原因なのか、奇妙な結末を迎えた。
しかし、多くの人の心に寄り添ったのも事実だ。
そのアートが失敗か成功かわからない。

それでも最後に欅坂に対して思ったこれだけは言いたい

パンクは人の言葉でやるもんじゃない

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