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硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐①

序章「1945年 硫黄島」


「西(にし)中佐殿は、なぜベルリン大会でメダルを逃したのですか?」

 その大曲(おおまがり)中尉の素朴な質問に、周りの将兵らはギョッとした。
 しばし、夜明け前の静けさが辺りを満たす。

 つい数時間前まで、一帯には猛烈な砲撃が轟いていた。沿岸に並ぶアメリカ艦隊からの艦砲射撃は昼夜を問わず行われ、絶え間なく降り注ぐ砲弾の雨は島の地形を変えてしまうほど凄まじかった。

 アメリカ軍がこの硫黄島へ上陸してから、すでに一ヶ月。
 ここまで奮戦を続けた彼ら戦車第26連隊にも、いよいよ最期の時が近づいている。

 連日の戦闘で、島内に配置された陸・海軍の戦力は分断され各個に撃破されていた。硫黄島総指令部との連絡もつかず、戦車連隊はすでに孤立した状況に置かれている。
 日に日に戦局が悪化するなか、伝令に出した者たちが他の隊からある噂を聞きつけてきたのは、弾薬どころか兵糧すら尽き果てる瀬戸際のことだった。

 海岸近くの放棄された部隊壕に、水と食料が残っているというのだ。

 戦車連隊は一縷の望みをかけ、与えられた連隊壕を放棄して、部隊を移動させることに決めた。
 日没を待ち、闇夜に紛れて行動を開始する。アメリカ軍が撃ち上げる照明弾に擂鉢山(すりばちやま)が照らされるなかを決死で進み、海岸近くへたどり着いた頃にはもう夜明けが迫っていた。

 しかし、野山を焼かれ岩肌を削られた硫黄島はまるで別世界のように変わり果てており、件の部隊壕もすぐには見つかりそうもない。
 それでも諦めずに斥候を放ち、戦車連隊はまだ火に焼かれていない森の中へ身を隠した。
 南洋独特の生ぬるい風が、潮と硫黄の臭いを運んでくる。そのなかに雑じる死の臭いを感じ取りながら、ただひたすら息を潜める。
 
 大曲中尉が件の質問を口にしたのは、そんな時だった。

 その場違いな問いかけに、なかには顔をしかめる者もいた。
 この場にいる戦車連隊の面々は、硫黄島に送られる前から同じ釜の飯を食ってきた仲間である。
 そのなかにおいて、この大曲中尉という人物は変り種だった。

 彼は本来、陸軍ではなく海軍航空隊に所属する人間である。
 海軍の一部が戦車連隊へ合流したのは、十日ほど前になる。
 決死の総攻撃の後、本隊へ戻れず島を迷っていた大曲中尉ら海軍将兵たちを、連隊長の判断で戦車連隊が助けたのだ。

 そんな〝海軍さん〟からの不躾ともいえる質問に、当の問いかけられた本人である第26戦車連隊長・西竹一(にし・たけいち)中佐は、何やらバツが悪そうに頭をかいた。

「うん、それを聞くか……。知ったところで、なんの特にもならん話だぞ」

「――ですが、気になるじゃないですか」

 ここぞとばかりに大曲中尉は身を乗り出す。

「海軍にも不思議がる者はおりましたよ。あのロサンゼルス大会の馬術競技において御国に金メダルをもたらした英雄・バロン西殿は、続くベルリン大会でも華々しい活躍をなさるに違いない――そう、日本中の誰もが期待しておりました。……ですが、結果は振るわなかった。一体、何があったのです?」

 一挙にまくし立てる大曲中尉を、しかし、あえて咎める者はいなかった。
 それは誰もが知りたかったことなのだ。
 戦車連隊の者たちも、ずっと同じ疑問を胸に抱いていた。いつ命運尽き果てるとも分からぬこの状況で、その思いが抑えきれなくなったのも無理もない話である。

 みなが真剣に耳を傾ける気配を察して、西中佐はかすかに苦笑しつつ、懐から一本の煙草を取り出した。ここに来る途中、アメリカ兵の死体から頂戴した戦利品のひとつである。

「そうだな。こいつを一服する間の暇つぶしで構わないなら、聞かせてやらんこともないぞ」

 それを聞いて大曲中尉を始めとする将兵たちは、待ってましたと言わんばかりに居住まいを正して連隊長へ向き直る。
 車座になって自分を取り囲む部下たちをどこか愉快そうに眺めながら、西中佐はどっかりと腰を下すと、煙草にそっと火を燈した。

 火だ。
 あの日、ベルリンで目にしたオリンピアの聖火。
 栄光とほろ苦さを称えた、青春の燈(とも)し火だ。

 そうして、西中佐は紫煙をくゆらせ語り始める――

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