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自由で幸福な童話|エリナー・ファージョン

エリナー・ファージョンというイギリスの児童文学作家をご存知だろうか。

「『リンゴ畑のマーティン・ピピン』の作者」と聞けば、ピンとくる人もいるかもしれない。

ファージョンの描くおとぎ話は、すみずみまで自由で、素朴な幸福に満ちている。

ファージョンは1920年頃から活躍していた作家だが、現在イギリスではあまり読まれなくなっているらしい。もったいないなと思う。

効率性や合理性にがんじがらめになった現代人への、幸せになるためのシンプルなヒントが、ファージョンの作品に隠されているような気がしてならない。

ちなみにファージョンは、国際アンデルセン賞(「小さなノーベル賞」とも呼ばれる影響力のある賞)作家賞の初代受賞者でもある。

大人にもぜひ読んでみてほしいので、ファージョンの魅力を語ってみたい。

⚠️記事の中でお話の内容にも触れているので、「読む前に知りたくないよ」という方は気をつけてくださいね。


ファージョンの本2冊と、ファージョンを特集した雑誌「飛ぶ教室」の画像


ファージョンの自選短編集"The Little Bookroom"は、日本では2冊に分けて出版されている。それぞれ『ムギと王さま』、『天国を出ていく』というタイトルだ。

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上記『天国を出ていく』のリンクは、ちょっと値段が高いので、こちらから購入しないほうがいいかと思います! 参考としてご覧ください。


この"The Little Bookroom"(日本語版では『ムギと王さま』)のまえがきは、ファージョンの子ども時代の家にあった「本の小部屋」の思い出から始まる。

(前略)あのほこりっぽい本の部屋のまどは、あけたことがありませんでした。そのガラスをとおして、夏の日は、すすけた光のたばになってさしこみ、金色のほこりが、光のなかでおどったり、キラキラしたりしました。

エリナー・ファージョン著、石井桃子訳『本の小べや1 ムギと王さま』岩波少年文庫、2001年、P4~5

いろいろな種類の本でぎっしりつまっている、いくつかのせまい本棚は、壁の中ごろまでとどき、またその上には、ほとんど天井にとどくところまで、乱雑に本がつんでありました。床に山とつんであるのは、またがなければなりませんでしたし、まどによせかけてゆみあげてあるのは、ちょっとさわれば、たおれおちました。おもしろそうな表紙の本をひきだせば、足もとには、まるで大波がおしよせたように本がひろがります。

同上、P5

本好きにとってはたまらなくわくわくする描写ではないだろうか。

本であればどんな種類でも読んでよいという方針のもとで育てられたファージョンは、「本の小部屋」で宝探しをするように読書をしていたという。

そしてなんといっても結びが素晴らしい。少し長いが引用しよう。

わたくしが、目をいたくしながら、こそこそと本の小部屋を出てくるとき、わたくしの頭のなかには、まだ、まだらの金の粉がおどり、わたくしの心のすみには、まだ、銀のクモの巣がこびりついていたとしても、ふしぎはありません。(中略)七人のおとめが、七本のほうきをもって、半世紀のあいだ、はきつづけても、わたくしの心に巣くう、きえた寺や花や、王たちや淑女たちのまき毛、詩人のため息、若衆やむすめたちの笑いをふきはらうことができなかったのです。この金色のおとめたちは、本の小部屋があれば、きっとそこへちりをはらいにくるのですが、ときには、運がよければ、のちになっても、ちょっとのま、心のあかりをつけにきてくれることがあります。

同上、P8

物語が好きな人は、きっとこの感覚を抱いたことがあるだろう。本を読みおえてもお話の世界が頭にちらついて離れなかったり、心が少し明るくなったりすることが。

――童話の名手であるファージョンは、おとぎ話調の豊かな表現で、読書の楽しみを思い出させてくれる。

ファージョンの物語は、空想の喜びを原動力として、自由にのびやかに展開する。こののびのびとした感じが、児童文学として案外珍しい。

登場人物たちは素朴で、特別な能力があるわけでもない。毎日を懸命に生きるふつうの人々だ。それもファージョン作品の魅力のひとつだと思う。

『ムギと王さま』より、短編をひとつ紹介したい。

「ヤング・ケート」
主人公は、老婦人の女中をしているヤング・ケート。ヤング・ケートは仕事を済ませるといつも、外出の許可を得ようとするが、老婦人に頑なに断られてしまう。

「おくさま、牧場 まきばへいってよろしゅうございますか。」
「いえ、いけないよ!」ドウさんはいいました。(中略)
「でも、なぜでございますか、おくさま。」
「《みどりの女》に会うといけないからさ。門をしめて、くつしたをおつぎ。」

同上、P76

川に行ってよいかと訊けば、老婦人は川の王さまに会うといけないからと言い、ドアのかんぬきをかけて金具を磨きなさいと命じる。

森に関しても同じことで、おどる若衆と会うといけないからと、ヤング・ケートの外出を許さない。よろい戸を締めてジャガイモを剥くよう命令する。

ある日老婦人が死んで、ヤング・ケートはついに外へ出かけることになる(次の奉公先に行かなければならないからという現実的な理由なのが、また味がある)。

ヤング・ケートはみどりの女や、川の王さまや、おどる若衆と出会う。

「おはよう、ヤング・ケート。」と、みどりの女はいいました。「おまえは、どこへいくの?」
「丘をこえて、町へ。」と、ケートはいいました。
「いそいで町へいくのだったら、道をゆけばよかったのに。」みどりの女はいいました。
「だって、わたしは人が花を植えないうちは、だれも、わたしのこの牧場 まきばを通してあげないのだから。」

同上、P78

ヤング・ケートは「よろこんで」と応じ、みどりの女が持っていた花をひとつ植えた。

すると、みどりの女は「おまえのすきな花を、すきなだけおとり。」と申し出る――「花を一つ植えてもらうたびに、わたしは五十つませるのだよ」。

💐

大人である私たちは、実務に時間を奪われがちだ。

ファージョン風に言えば「花を植えている暇があったら靴下をつがないと」、「踊っている暇があったらジャガイモの皮を剥かないと」と考えてしまう。生存のための行為にフォーカスしてしまう。

でも本当は、花を植えたり、踊ったりできることに、この世に人間として生を受けた喜びがあるのだ。

なにかとコスパが重視され、教科書からは文学が消え、食いっぱぐれないための知識を取りまとめた本が大型書店に山積みとなるこの時代に、ファージョンは大切なことを教えてくれる気がする。

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