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名作にくらいつけ! 安部公房 「砂の女」 ~迷路の中の反復~

(2800字程度)

 ワクワクしながら並んで待っていると、やっと自分の番がやってきた。嬉しさのあまり、歓声を上げながら入り口をくぐる。と、そこまではよかったものの、いざ入ってみると、出口はおろか、自分がどこにいるかすらわからない。不意に怖くなり、入り口に向かって大声で誰かを呼ぶ。誰も来てくれる気配はない。少しの間、待ってみる。誰も来ない。仕方がないので、もう少し待つ。壁を叩く。地団駄を踏む。力の限り、叫んでみる。全てが無駄なことだと分かった途端、絶望と恐怖のあまり、その場に座り込んでは泣き出してしまう。世界のすべてが止まってしまったように感じる。すすんで入り口をくぐった自分へ向けて、これ以上ないほどの言葉で、侮蔑の念を述べる。
 
 泣き声を聞きつけて、係員がやってくる。優しい言葉をかけられ、泣き声は一層高まる。ここが遊園地の迷路でしかないことを改めて確認した途端、空はグラデーションを取り戻し、のんきな鳩の声が壁を越えて耳に届く。次第に現実の感覚が戻ってくる。泣いているときも、叫んでいるときも、その間中ずっと、ここは遊園地の迷路でしかなかった。
 
 この文章を読んでいる方の中にも、似たようなことを経験したという方は多いのではないだろうか。
 迷路というものには独特のものがある。それが単なる遊園地のアトラクションだとわかっていても、それでもやはり、一抹の不安が頭をかすめる時があるのだ。
 
 さて、先ほどの文章は、遊園地の迷路から出られなくなってしまった人を念頭に置いた上で、自分で描写を試みたものなのだが、なぜそんなものを書いたのかというと、ある小説の世界と迷路の中の世界とを、較べた上で感じ取ってほしいという意図があってのことだ。
 勘のいい方はもうお気づきのことだと思うが、その小説とは、もちろん、安部公房の「砂の女」のことだ。
 
 昆虫採集が趣味の二木聡平は、ニワハンミョウという虫の魅力にとりつかれている。ある時、ニワハンミョウを是非とも捕まえようと、男はある村落を訪れる。しかしその村は、生活のほとんどを砂との闘いに費やす、まるで迷路のような村だった。

 何も知らない男は、村人に促されるに任せて、一人の女の住まいでしばし休憩をとることにする。けれども、どうも様子がおかしい。その奇妙さに気付いた時には、すでに手遅れで、男は自ら危険な場所へ踏み込んでいったことを、大いに後悔する。

 男は逃げようと試み、試みては捕まえられる。手を変え品を変え、あらゆるやり方で村からの脱出を試みる。

 この一連の反復、繰り返し。この反復に沿う形で、「砂の女」の物語は展開されていくのだが、単なる追いかけっこで終わらないところが、この小説が名作と呼ばれる所以である。

 さて、この小説の大きな要素として、迷路とともにもう一つ、あげなければならないものがある。
 先ほどすでに触れたように、反復を示す描写が、折に触れて繰り返されているのだ。
 
 夜になると決まって繰り返される、砂の掻き出し。この意味での反復。これほど過酷な環境の中でも、繰り返される生殖。この意味での反復。指が貝の肉の間で繰り返す、種の管轄に属する行為そのもの。この意味での反復。親から子へ引き継がれる、砂にまみれた生活の継承。この意味での反復。そして、逃げる、捕まる。この意味での反復。

 「砂の女」の世界は、反復的なもので溢れている。安部公房が意図してそのように描いていることも、テキストから明らかに読み取れる。
 目の前にある現実の世界を生きている我々には、このような反復の世界は、それだけでは精神が耐えられなくなってしまう程に、原初的であり過ぎて、一種、奇妙の感すら受けることになる。
 その、異様な世界の姿を、現代に生きる我々の目の前にまざまざと映し出すこと。それこそ、この小説全体を通した著者の企てなのである。
 そして、そうした異様な世界の現前は、翻って、我々自身の存在を照らし直すことになる。だからこそ、この小説を読んだ人のほとんどは、何とも言えない奇妙な読後感を味わうことになる。

 それでは、その反復で溢れた世界の成立を可能ならしめるには何が必要か。
 反復的な物事も、主人公自身も、一切のものをすり鉢状の村落の外側にあふれ出ることを許さず、内側に閉じ込め続ける為に必要なもの。  
 
 思うに、そこで必要なものとなれば、それこそ、迷路の存在なのではないだろうか。それも、一度入り込んだら抜け出せない類の迷路である。
 物語を構築していくにあたって、村=迷路という構図は、不可欠なピースの一つとして採り入れられているのだ。

 面白いのは、迷路的な世界が展開される場所として、お城や塔が舞台になっているわけではない、ということだ。

 お城や塔を舞台にしてその中をぐるぐるとさまよい続けるという展開は、文学に限らず、様々な枠組みを通して、古今から繰り返し描かれ続けてきた。
 迷宮とかラビリンスといった表現が、一般的なイメージとして人々に浸透していることの所以である。
 
 広い建築物の内部をぐるぐるとうろつきながらも、上へ上へと昇っていく。そしてその存在している場所が高くなっていくにつれて、その空間が抱える幻想性も、同様に強いものとなっていく。地上との隔たりが大きくなるにつれ、その世俗性からも遠のいていく具合である。そういうイメージを具えた物語は、これまでいくらでも描かれてきた。
 
 それを踏まえて考えると、「砂の女」の場合はまるで真逆である。
 
 村を形容する表現として、穴、という言葉が作品中で繰り返し用いられている。そればかりか、著者は、一人称を使いながら、主人公の二木の言葉として、この村のことを、「どれいの穴」という風に表現させている。
 
 さらに言えば、扇型をしたすり鉢状の「どれいの穴」ということなのだから、釣った人間を下へ下へと追い込み、底へと至ったところで穴ぐらへ閉じ込めてしまうという、そんなイメージの世界が浮かび上がってくることになる。

 同じ奇妙な世界、幻想的な世界でも、「砂の女」の持つ奇妙さは、文字通り砂にまみれた、現実世界と地続きの奇妙さなのである。
 そう考えれば、人の醜悪さがこの小説に活気を与えていることも、全く頷ける。現実と地続きなのだから、幻想的とはいえ、それは人が前面に出てくる幻想性ということになる。

 「砂の女」とは、現実と幻想とのあわいで繰り広げられる、新たな神話的世界である。この小説が生まれたのが二十世紀も半ばを過ぎて後のことという事実にも、自然と頷けるものがあるだろう。
 
 ちなみに、砂でできた穴の斜面をひとたび下れば、上るときには登山を思わせる光景が広がることになる。      
 穴の中に広がる山。いかにも安部公房らしい地形のマジックだ。

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