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エッセイ 託された切符

 (2800字程度)


 今年で私も四十三になった。どちらかと言えばインドアの私も、これまでにいろんな形での旅を経験させてもらった。一人旅。家族旅行。修学旅行。様々な地域への観光旅行。卒業旅行を経験できなかったのは少し心残りではあるけれど、休みの度に故郷の沖縄との行ったり来たりを繰り返していたことを考えれば、とくに残念がることでもないのかもしれない。

 海で隔てられた沖縄で育ったためか、旅と言えば、考えるのはまず移動手段だ。
 旅行の規模や行き先の前に、移動手段を決めなければならない。移動手段が決まれば、細かいこともおのずと決まってくる。そんな風だった。
 中でも一番のポイントは、飛行機か否か。この点に尽きる。
 本島近辺の島への旅行なら、飛行機はもちろん、船と言う選択肢もある。
 しかし宮古島や石垣島に行くのに、船は骨が折れる。ましてや、他県への旅行となると、ほぼ間違いなく飛行機で決まりだ。

 沖縄本島で育った私の、小学校の修学旅行は伊江島だった。船で三十分ほどの旅だ。平和学習を終えて、山に登ると、いそいそと皆で帰り支度を始めていた。
 その日は確か、風が強くなる予報が出ていた。船は上へ向いたかと思うと、ジェットコースターのように頭から急降下していった。雨風を浴び浴び、雄叫びを上げていた私たち男子の目の隅には、女子たちの冷ややかな視線が映っていた。宿に着くと、キャンプファイヤー中止の知らせが入った。血気盛んな男子たちの挽回の機会は、見事に取り上げられた。

 初めて飛行機に乗ったのは、小学六年生の時の家族旅行。年末年始に九州を一周して帰って来た。
 修学旅行で船に乗って半年も経たずに、今度は飛行機に乗ることになった。盆と正月が一気にやって来た心持だった。正月の方は、実際ほんとにやって来た。
 暖かい冬しか経験したことのない私たち家族は、吐く息の白さの濃いことや道端の草に積もった霜などに、感動してははしゃいでいた。子供から年寄りまで、霜の話で一時間は喋っていた。
 その他にも、家の造りから生えている木の形まで、何から何まで違っていた。テレビでしか見たことのなかった初めての光景が、私の眼前にどこまでも広がっていた。美しいなと、素直に思った。古臭いものであればあるほど、私たちにとっては新鮮だった。

 飛行機にも乗った。幸運にも、小学生のうちに船にまで乗ることができた。
 
 それでは電車は。電車っていうと、あの電車のことですか。
 
 そんなものに乗ったのは、中学三年生になってからですよ。

 これが本当のことなのだから仕方がない。私が初めて電車に乗ったのは、中学三年生の修学旅行でのことなのだ。
 当時の沖縄には、まだモノレールもなく、私はと言えば、切符の買い方すらわからない有様だった。私だけではない。ほとんどの生徒が、切符を買ったこともなければ、電車に乗ったこともなかったのだ。 
 
 その頃、移動の手段として、電車は考えにも入れられないものだった。沖縄には、鉄道も電車もなかったのだ。 
 二十年くらい前だろうか。かろうじてモノレールは開通したものの、モノレールは那覇周辺のみの、観光客をメインの利用者として想定した交通機関だ。 
 今でも沖縄の道路には、線路もなければ踏み切りもない。県民のほとんどは、鉄道に関する一切のものとは縁遠い生活を送っている。これは昔に限った話ではない。今でも、実際そういう感覚なのだ。
 
 修学旅行で晴れて電車に乗れることになった私たちだったが、実は切符を買った覚えがない。実に曖昧な記憶なのだが、電車がやって来る少し前に、何だか切符らしきものを手渡された気もする。絶対に無くすな、という迫力満点の担任の表情が一緒になって浮かんでくる。

 おそらく、担任の先生も少し切羽詰まっていたのだ。誰か一人でも乗り遅れたりすれば、そこで修学旅行自体が止まる。下手をすれば、その場で修学旅行も中止。
 そういうこともあってのことだったのだろう。切符はすでに買われてあった。誰かしらが前もって全員の分を買ってくれていて、それを手渡された私たちは、次の駅までの一駅分、電車に乗るという社会勉強を経験することが出来た。おそらく、そういうことだったのだろう。
 四十三になった今、そのことに思いを巡らせてみる。これは、すごいことだ。
 どこまで伝わるか分からないが、あまりにリスクが高すぎる。時代が違うとはいえ、先生方も大博打に出たものだ。私が教員の立場だったら、きっと反対していたことだろう。

 鉄道会社にも、何らかの形でお願いしてあったのかもしれない。先生方はもちろんのこと、添乗員さんたちが、裏方となって、色々と立ち働いてくれていたのかもしれない。本物の電車を目の前にして興奮状態にある私たちの他にも、一般の乗客はいたのだろうか。さぞ、ご迷惑ではなかったろうか。

 謎は、いくつもある。どうやって、と、一度考え始めてもきりがない。謎はいまだに謎のままだし、おそらくはこれから先もずっと、疑問が晴れることもないだろう。
 それでも、どうして、という疑問の方は、少しは推し計ることもできる気がする。
 あの頃の大人たちは皆、復帰以前の沖縄を知っている。あの世代の人々には、沖縄の人間であるという事に関して、自負する気持ちと、コンプレックスと、それらがないまぜになった難しい感情が、心の底で滞ったままになっているらしいのだ。
 実際のところ、自負と劣等感が表裏をなしているような理解しがたいものが、透けて見えるような瞬間がある。それは私たちの世代にも理解の困難な、深い深いところからやって来る類の物らしい。それは、普段はなりをひそめているが、ある時突然、無意識に吐き出されては、同じ沖縄に住んでいる私をすら、ハッとさせる。
 私はそれを咎める気にはなれない。私たちは、モンパチの「琉球愛歌」をカラオケで歌い、郷土に対する自負や愛着を、だだ洩れにして来た世代なのだ。全てを理解するなんて、土台無理だ。

 ただ、修学旅行で電車に乗ったあの計画の底には、確かに愛情があったのだと思う。それも、隣人愛的な、大きな意味での愛だ。
 何か大切なものを次の世代に託したい。狭い沖縄県内ではなかなか経験できない、貴重な経験をさせてあげたい。あの経験のあちこちに、そういう気概が込められていた気がしてならない。
 たかが電車、されど電車と考えるのは大げさだろうか。具体的な形として出てきたものは、経験としてはシンプルなものだったかもしれない。それでもそこに込められた気概となれば、やはりあれは本物だったと、私にはどうしてもそう感じられるのだ。

 あの時、止まっていた電車はふいに動き出した。意外にも軽やかなあの感覚。あんなに大きなものが、スーっと横に滑り出したときの、どこか偽物っぽいあの感覚。交通機関の出発というよりは、遊園地のアトラクションが動き出した時のワクワクに近かったあの感覚。

 きっと私たちは、何と名付ければいいのかも分からない、そんな一瞬の感覚を積み重ねて、出来上がっているのかもしれない。
 


書いたもので役に立てれば、それは光栄なことです。それに対価が頂けるとなれば、私にとっては至福の時です。そういう瞬間を味わってもいいのかなと、最近考えるようになりました。大きな糧として長く続けていきたいと思います。サポート、よろしくお願いいたします。