研修を受けて

随分と久しぶりになりましたが、久々に感想をタラタラと書きたくなったので書くことにします。

中身は省庁へ自治体からの研修生として派遣された内容の話ですが、自治体で働く人が仕事にあたって役に立つ話は書いていません。
大前提として、自分がどこの省庁に派遣されているかを明かす気もなければ、来て半年も経ってない人間が国レベルで何かを語れるような驕りもないからです。
そんな話は所管省庁の担当者に聞いてください。

これから書くのは、来て半年で自分がどれほど無能であるかを思い知り、それでも生き残るために自分がなりふり構わず捨てたものを、今の自分からはどう見えているか?という感想文です。
少なくとも、何か意義を見出して省庁派遣を希望した人の役に立てる話ではありません。
また、希望せず派遣されたとしても全員が皆こうなる訳でも当然ありません。

これは自分自身が無能ゆえに苦しみ、その中で見えたものを自語りで書きたものです。
ポジティブな話は、研修が終わってから書けばいいんです。今この時に、クソみたいなどうしようもない話を書きます。


自治体職員になったのは、特段成したいこともなく、それなりの肩書きが欲しいというなんともやる気のない理由だった。
だから仕事内容なんてなんでも良かったし、クソみたいな単純作業ばかりして出先の閑職巡りをやってればええだろうと思ってた。
間違っても、仕事をしたい人間のためにあるような外部への派遣の枠になんて手を挙げるつもりはなかった。
一生言ってやる、なんで俺を選んだ馬鹿野郎。

仕事へのモチベーションとしては、誰かの役に立てることができればいいなという思想が昔から自分の中にあり、これを果たす手段として、後任にうまく仕事を引き継ぎたいなという思いはあった。

自分が少し頑張って、後の人が楽になればと思い、なるべく書類やフォルダをわかりやすくしようとはしていた。
でもそれだけで、その成果は自分が受ける必要はないし、特段評価もいらなかった。みんな楽できるならそれに越したことはなくて、それが当たり前になればいいなと素朴に思っていた。感謝されることではあっても、評価されるような点ではなければ良いと思っている。

実は、自分が新採の時と2部署目の時に同じ人から引継ぎを受けたのだけれども、2回ともすごく丁寧にやっていてくれていて、とても助けられた。
その恩を返したいという気持ちが原点になっている。

ここまでは、まぁ綺麗な物語として書いたことはあるものの、国に来る前に自分が仕事に対して持っていた思想だ。
誰かのためになれるように、大それたことはできずとも、引き継ぎで困らないようにしたい。
そう思っていた時期が私にもありました。


この、自分の中に並々ならぬ感情としてあった、誰かの役に立ちたいという気持ちはまだ残ってるんだろうかと今では思う。

国に来て数ヶ月、重大な問題こそ起こさなかったものの、俺は死ぬほどミスって、数え切れないほどの迷惑をかけた。当時の俺は間違いなくお荷物だったし、仕事において他人からの信用は全くなかった。
そのことに文句はない。身元しか知らない人間がやって来て、役に立たなければ俺だってそうする。責任を取る能力がある人間が、然るべき責任を果たした。俺の代わりに。
おかげで仕事の一山は超えた。組織を組み上げた偉い人の思惑から逸れず、使えない歯車でも油を注げば回った。


そんなことがあったもので、自分は何かの役には立てるはずだという思い込みがなくなり、周りに迷惑をかけながら仕事をするしかなくなって、ただただ生き延びることしかできなかった。

その時正しかったことは、どれだけ惨めであったとしても、少し申し訳なさそうな顔をしつつ、役に立たない人間として静かに席に座っていることだった。
自分の能力の限界をまた一つ自覚でき、国に勉強しに行かせてもらえるぐらい派遣元から評価されているだなんて自尊心は消えてなくなった。

残った自己評価は、俺はクソの役にも立たなかったけれども、それで潰れるほど弱くもなかっただった。事実は、冒頭の自語りの物語のようにうまくまとまらない。端的に最悪でクソだと教えてくれる。


その取るに足りない能力の自分では、ただ生き残るためだけにも今まで積み上げて来た色んなものを捨てるしかなかった。

ここ数年は、しんどい時でも、投げ出さないで最後まで自分に課された責任を果たしたいと思っていた。
もっとも、現実はここまで綺麗じゃなくて、背負うしかなくなったものはきちんと抱えて行きたいぐらいだったのだけれども、しんどさに対する自分なりの回答があった。

4年目で初めて直属の後輩ができた時はその回答を張れるだけの何かは果たせたと思っていた。
n年目の今、俺はその回答がわからなくなってしまった。

しんどい時に歯を食いしばれたなら、それを誇るべきだとなるかもしれないけれど、それはきちんと思想を持って耐えた人間が掲げられるものだ。

どんな理由であれ、あの時の俺に思想なんてものはなく、それまで抱えて来た意地も、捨て切れなかった自尊心も、なんの当てにならない自己評価も、すべて役に立たなかった。役に立たせることができる能力がまるでなかった。

俺が今生きているのはそれでも耐えたという精神力の強さではなく、1年限りの借り物の人間であり職位であるという、派遣元と派遣先の関係性の一点に尽きる、と自分では思っている。潰れると年度内の補充も効かないし後が面倒だから、お情けで死ねなかった。

現実はどうかは知らないけれど、この一点がずっと自分の頭から抜けない。
気持ちとしては死ぬような思いはしたんだけれども、そもそも自分のミスだし、大したことはしてないし(できてないし)、潰れると手間だろうから、なぁなぁでやってくれたんだろう。
事実、1番問題を起こしたときの話は俺は未だに誰の口からも聞いていない。
これが大人なんだよ。沈黙こそ答えだ。俺にはかけられるに値する言葉はなかった。

組織の目で見たらこれが正しいことはわかる。人は潰すべきじゃない。俺の人生にしても、健康であるに勝るものはないだろう。
何も悪いことは起きていない。だけれども、なら俺のこの約半年は一体何だったのだろう。

色んなものを抱え切れず手放すしかなくて、溶けて無くなってしまったけれども生き残った。
また同じようなことがあればまだ耐えられるのだろうけれど、次は何を捨てることになるんだろうか。

誰かのためになりたいという、後任にうまく仕事を引き継ぐための努力はしているけれども、今の自分にとってそれはせめてもの償いで、使い物にならなかったことへの申し訳なさや恥ずかしさを雪ぐようなものでもない。
ただ、R5のX係n席はここでミスったので気をつけてくださいと、己の愚かさを書き留めて残す作業を続けている。

歴代担当者はできていたのに、俺だけができていない。その事実に返せるだけの言葉が今の自分にはない。さっき書いたとおりだ。沈黙は答えなんだ。


元々、自分を否定してそこから何かを探そうとするような思想を持ってたけど、否定をさらに重ねると何かを探せなくなることがわかった。
色んなものが、自分の中から溶けてなくなってしまった。そこに在ったこと、何を良しとしていたかがよく思い出せない。
言葉としては振り返れても、そこにかつて宿った熱量はもう自分の中にはない。

霞ヶ関に放り込まれて約半年、消耗して何がしたいかが曖昧になってるけれど、地位に守られつつ、真綿で首を絞められるように過ごしています。

早く帰るか、ここに見合うだけの能力が欲しいと思いながら、まだ東京で過ごしています。
半年後、自分は何を考えているでしょうか。今よりも腐ってなければ良いのですが。


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