「後悔したくない」とは?

後悔したくないのであれば、後悔しない選択をするよりも、何故後悔しないことそのものを選択しないのだろうかと思ってしまう。
そうです、人の心がわからないとよく言われるタイプの人間ですね。

昔から、こういう表現を見る度に捻くれた見方をしてしまう。
いつからか、「後悔したくない」と言うのは、僕の中ではしっくりこない表現になっていた。
よくある文脈としては、選択を迫られた人間が、悩みながらも自身が望むことを決断するときの心境として語られるかと思う。誤解のないように言うと、もちろんこういう展開はとても好きだ。
僕の言葉ではないが、「人の心の機微を感じられる」ところは物語の醍醐味で、そこに至るまでの過程は価値を感じられる。
そのために、ページをめくり、作品を視聴し、あるいは人の話を聞いている。


そこに価値を感じ、見入ってしまうからこその疑問なのだ。何故、後悔しないことを選ぶのか?
確かに、心境を語る言葉としては一定の重みがある言葉には違いない。
正しさでも、信念でも、祈りでもなく、たとえ失敗することがあったとしても、それらをすべて含めた上で、「後悔したくない」と語ることは、語り手のそれまでの経験や価値観を反映し、確かに佳境を盛り上げるだろう。アツイ話で人間の話だ。


でも、だからこそ、どうしても僕は気になってしまう。後悔したくないということは、一つの目指すべきところであることは理解てきるのだけれども、それは一番やりたかったことではないのじゃないか?と。
どうしてもやりたいことがあって、その選択をした自身を後悔したくない。という話なら確かにそうなのだ。僕だってそう思う。ただ、その場合の一番やりたかったことは、どうしてもやりたいことであって、後悔したくないことではない。
自身が是としたものを是と言い続けたいというものだと僕は思うので、その選択や結末を後悔したくないものだと言うのは何だかしっくりこないのである。ハッキリ言うと、なんだか興醒めしてしまう。

そんな捻くれた見方をするからこそ、「後悔したくない」なら後悔することをやめたらいいのになと捻くれた意見が出てきてしまう。自身の心境を語るときぐらいは、一番を語ろうぜと。
そこで語られる一番は尊いものだし、一番でない「後悔したくない」は人間の心の機微の純度が下がるように思えて、好きになれないのである。


そんな考え方なので、僕は人生で後悔したくないとは言わない。僕だって、もっと何か他のことについて語れるのじゃないのかなと思ってしまう。

まぁ、偉そうに語ったところで、人生でかく在りたいという確固たる目標がないので、僕の人生はどうやったって失敗して後悔するのだろうが。目標がないので成功のしようはないし、その場での目指すところができたとしても、その成功基準はいっときの感情に振り回され、理論値は手の届かないもので、タラレバに挟まれて生きていくことになるだろう。僕はそういうやつだ。意思薄弱なのでこんなよくわからないところに変な矜持を持ちたがる。いつもどおり、自覚だけはある。


まぁ、ないものはないなりに機嫌良く人間をやっているので、決して悲観しているわけじゃないのだけれども、ないことには変わりない。
そう言う人間なので、せめて後悔しないことを人生の判断の基準に置きたくはないな、と思っている。
人生でやりたいことがないことには耐えられるけど、人生で後悔したくないということには僕は耐えられないから。





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