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鈴木大拙の見性内容

更新 2024年5月31日

 大拙先生は、渡米前の1897年(明治30年) 、27才のとき、釈宗演しゃくそうえん老師のもとで、これが最後との思いで命がけで「無字」に取り組み、12月の臘八接心ろうはつせっしんにて、見性けんしょうに至りました。そこに至る経緯については、小川隆先生の「禅思想史講義」に簡潔にまとめられています。下記引用は、後に、大拙がアメリカから生涯の友である西田幾多郎に当てた手紙の抜粋です。

 ある夜、所定の坐禅を終えて禅堂を下がり、月明かりに照らされながら、木立の中を通り過ぎ、帰源院にもどろうと山門の近くまで下りてきたところ、突如、自分自身を忘れ去った。いや、まったく忘れたのでもなかったようだが、しかし、月明かりの中、木々の影がいりまじりながらくっきり地面に写し出されているさまは、あたかも一枚の絵のごとくであり、自分自身がその絵の中の人となって、木と我の間に何らの区別なく、木が我であり、我が木であって、「本来の面目めんもく」がそこにありありとあるという気持ちがした。やがて帰源院に帰りついた後も、胸の中はさっぱりとして、わずかのわだかまりも滞りもなく、何となく喜びの気持ちに満たされていた。その時の心境を、今、一つひとつ言葉で言い表すのは難しいが、、、

小川隆「禅思想史講義」

 上記の引用から、大拙の見性経験の核心を明確化してみたいと思います。大拙の経験を明確化するなど悟りを知らない私には無理がありますが、35年間、大拙を読み続けてきた大ファンの一人として解ることもあるので、非力ではありますがそれを書いてみたいと思います。

木と我の間に何らの区別なく、木が我であり、我が木であって

 この部分が、大拙の見性経験の事実です。自分自身を忘れ去ったというのは後付けの状況説明です。見性経験の事実は、「木と我との間に何らの区別なく」「木が我であり、我が木であった」という妙覚でした。これが、大拙の検証経験の内容で、これがすべてで、残りの文章は補足説明です。

 大拙はこの経験事実を後から振り返って、「突如、自分自身を忘れ去った。いや、まったく忘れたのでもなかったようだが」と書いています。木立の中にいれば、普通の状態では、自分がここにいて周囲の木立を見ていることを自覚しますよね。見性経験の中の大拙は、観察者の自分を、普通の位置に見い出せていないのです。しかし、木立は見られている。あたかも、その見られている木立の方に、観察者の自分がいるような感覚を覚えていたのかもしれません。身体は無くなっていないし、自分が無いとも言えない。観察はある、意識はあるが、肉体の中に閉じこめられた自分ではなくて、木立と一体の自分を感じていたものでしょう。これは、幽体離脱とは少し違います。どこが体でどこが幽などという、明確な区切りはないからです。

 「木々の影がくっきり地面に写し出されているさまは、あたかも一枚の絵のごとくであり、自分自身がその絵の中の人となって、」というのは、その経験中の印象には違いないでしょう。ただ、これが、その経験の途上の実感であったのか、後から振り返ればそのような感じだったということか、おそらく、本人にも判然としないところかもしれません。たぶん、後づけの補足説明と言っておいた方が良いような気がします。とにかく、その時の大拙の意識の中では、自分と環境の境界線が消えてしまっていました。自我の輪郭が失われてしまって、すべてが一枚の絵のように感じられていたわけです。

 「『本来の面目』がそこにありありとあるという気持ちがした。」というのも後から振り返った感想のように思われます。見性経験の中にいる間は思考は止まっています。複雑な理屈を考える脳は止まっていて、ただ観察のみがあるのです。「木が我であり、我が木であった」という経験事実のみです。もしかすると、見性経験のただ中に記憶の中から「本来の面目」というフレーズがよぎったのかもしれませんが、もし、そのような言葉に心を奪われてしまえば、そのまま見性経験に浸っていることはできなかったでしょう。「その時の心境を、今、一つひとつ言葉で言い表すのは難しいが」と書いているのも、その経験の中では普段の考察主体たる自我は失われていて、脳内の思考や記憶の作用は静まっていたからではないかと、私は思います。

 この見性経験が何秒くらいの経験だったのか、10秒か、30秒程度の出来事だったのか、時間の長さに言及していないところをみると、おそらくはそれほど長い時間ではなかったように思われます。

 「やがて帰源院に帰りついた後も、胸の中はさっぱりとして、わずかのわだかまりも滞りもなく」というのは、見性経験によって安心を得たということでしょう。これは、自分と環境の境界線を失った経験による直接の効果です。知識平面上での概念化と思考操作の機能が静まった世界を観たことによる効能です。人間の苦悩の主たる要因は、自我を執拗に保存しようとして知性を乱用することでしょう。見性経験の中で、自己というものが解放されてしまった状態を一度経験してしまえば、自我への執着の無益さは、無意識の底の方で実感されてしまいます。

 これまで解決できなかった公案や、生活上の疑念の数々は、その依って立つ基盤を崩され、知性による撹乱は静まって、この経験の後には、知性はこの既証の人を悩ます固定概念の棘を失ってしまうのです。

 「何となく喜びの気持ちに満たされていた。」とあるのは、このときの経験によって、長い間頭を離れなかった「無字」にまつわる参究、それを思考し続けた自分、その重荷を背負った自分自身が消えてしまった経験から、その荷は、自己と一緒に解放されてしまったのです。ひとたび自分の意識を放り捨ててしまえば、無字以外の、すべての疑いも、苦悩も、それらはそのままで、もはや難問でもなんでもありません。問題が知的に解けたのではありません。問題は問題のままで、問題で無くなってしまうのです。不可思議解脱です。いわば、知的に未解決のままでも、感情的には解けてしまったのです。矛盾は解かれぬまま、受け入れられてしまいます。

 禅のすべての公案は、この妙覚の観察からの音信です。この特異性をもった超意識性の意識、すなわち霊性的自覚から見れば、なにごとも、「まあ、そうだよね」という感触で受け入れられてしまいます。個多は、心理的には、各個の輪郭を弱体化させてしまうのです。私たちの日常意識は、一つ一つの個をバラバラに独立したものとして、固い認識で捉えています。見性経験を経た人は、概念的頸木くびきから解き放たれて、個多を即非そくひ的に観察します。個多は無礙むげに融通するのです。と言って、全体がぐちゃぐちゃになるのではなくて、木は我で、我は木だけれど、木は木で、我は我なのです。悟りの人は、知性のうそ、概念による錯覚を見抜きます。これも、体験があってこその感覚なので、理屈ではないのです。

 私はこの妙覚を、はじめは、万人の意識の底の方にある「意識の原点」と考えていました。盤珪禅師は、「親の産みつけた不生の仏心」と言っています。でも、今では「万人の意識の底にある」のかどうかは明白とは言えない気がして、今は「見性意識の原点」ということにしています。このような自分と環境の境界が無くなる奇妙な覚は、大拙が不生について語ったように「特異性をもった超意識性の意識」とした方が適切なのかもしれません。この問題は、今後も検討していきたいと思います。

 ところで、このときの見性経験の事実を、後日、再体験したような記録などは私は知りません。あれば誰かが発掘して、発表している筈ですし。アメリカに渡った後で「肘外に曲がらず」という表現を得て、大拙の禅経験は徹底したということですが、これは、渡米前の見性経験の再体験ではないわけです。

 おそらくは、主客未分、動見不ニの観察、すなわち禅意識は、見性経験後は無意識の底にいつも離れずに持っていたのだと思います。しかし、知性の上ですべての謎が解けてしまうような頓悟のインパクトは、一度きりだったでしょう。見性経験は基本的には一度、また、一度であるから見性経験なのです。そして、この一度の見性経験が禅者にとっては絶対的な意味を持つ、最重要な経験なのです。この経験が基礎になって、それを一般の人々が理解できる言葉で表現することに、大拙先生は一生を捧げました。ですから、禅意識と見性経験と禅思想は、分けて考えた方が分かりやすいと思います。

 あと一つだけ、大拙が上記引用の中で書いていないことを足しておきます。上記引用中に書かれているのは、見性経験の「大智」的側面のみだからです。「大悲」の側面、つまり覚者の行動原理にも触れないと、見性経験の残りの半分が見えてきません。伝統的な言葉では「無功徳むくどく」といって、自分の損得を勘定に入れないことです。上記引用中から関連のある部分を無理やり抜き出せば「突如、自分自身を忘れ去った」とか「『本来の面目』がありありとある」というところです。つまり、分別に従って行動しないで、超個の霊性に動かされていくところです。

 さて、ここからは蛇足です。この時の大拙の見証経験の「木が我で、我が木だった」という境涯を、思想的になんとか表現するなら、まずは、「主客未分しゅきゃくみぶん」が思い当たります。見ている主体が、見られている客体です。見るものが見られるものだ、というのは、一般的な知性の理解を超えています。さらに想像を膨らませますと、この時の木々は決してカチカチの個体と感じられたわけではないはずです。もしカチカチならそう描写したでしょうからから。木は、風にそよぐ、生きた普通の木だったものと思われます。そうすると、木の枝はささやかにでも、動いていた筈。その動いているところに自分を感じていたら、これは「動見不ニどうけんふに」と表現できます。動見不ニは、たぶん私の造語ですが、よく言われる「動くものが見るもので、見るものが動くもの」という動的直観です。

 ここに上げた表現は私の蛇足ですが、大拙は、この時の見性経験を基準にして、既存の禅や仏教の用語の深意を理解し、自由に使いこなしていきます。華厳けごん達磨だるま、無心、臨済りんざい盤珪ばんけい妙好人みょうこうにんなどにまつわる記録も、自身の見性経験を基準に読み解いて、解説していきます。そして最終的には、「即非そくひの論理」、「霊性」、「超個己」などの独自の思想を生み出していきました。

 最後に、鈴木大拙は思想の大切さをたびたび説いていますが、この思想というのがどういうものなのかを考えてみます。禅は不立文字ふりゅうもんじです。言葉にできません。ですから、思想よりも経験が大事だというのも、大拙の最も重要な主張なのです。体験がなければ、思想は絵空事になってしまうからです。それでもなお、思想の重要性を説くのは、大拙が、現代人は思想から体験に進むことができると信じているからです。

 大拙は、単に思想と言いますが、大拙の思想はどうも普通の人の思想とは違っているようです。大拙の思想は、いわば「霊性思想」なのです。ついでに言えば、道元禅師どうげんぜんじの思想も、盤珪禅師ばんけいぜんじの思想も、霊性思想と言うべきだと私は思います。私たち未証の大衆の思想は「知性思想」です。それで、大拙の思想を常人が理解しようとすると、多くの困難に直面します。

 その理由は、「知性思想」が無矛盾指向の思想であるのに対して、大拙の「霊性思想」は矛盾を許容する「矛盾同一」の思想であるからです。矛盾を許容すると言っても、なんでもかんでも無茶苦茶にするというのではありません。宗教的達人の表現には、理屈で割り切りれないものがあります。でも、それがたとえ非論理的な言説であっても、自身の見性経験の事実に照らして納得できるものには同意する、ということなのです。仏教でも、その他の宗教の祖師方でも、彼らの言説には、そのように見て行かないと理解できないものがあります。

 「木は我ではないが、木は我である」というのは、即非の論理に通じるものがあります。この「矛盾同一」の原理は、大拙が27才の時に、見性経験の内容として、大拙の無意識が受け入れてしまったものです。この原理は、95歳で無くなるまで、大拙の意識の上でさまざまな言葉で表現が工夫されていきます。ここを理解せずに、大拙の思想を単なる知性思想として考察すれば、必ず見誤ります。この点は、大拙本の読者は、心して、注意深く、大拙の思想を霊性的に読み進めいく必要がありますね。

Aki Z

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