鈴山善秋  ~布枠庵~

鈴木大拙のファンとして、禅意識についてあれこれ考察しています。

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精神と霊性 ~知の衝突~ 大拙思想の要諦

更新 2024年5月21日  世界中で二分性の知性の暴力が猛威をふるっています。頻発する戦争を見るにつけ、二分性あるいは二元性の知性の欠点を強く感じます。敵と味方をどうしてキッチリ分けたがるのか。善と悪とは、キッチリとは分けられないでしょう。精神は常に対立者を作ります。それは、物質であったり他の精神であったりします。そして、力で相手を支配し、あるいは破壊しようとさえします。ある意味、知性を獲得した人類にとって、AIの台頭を巻き込んだ「知の衝突」は、人類史上避けて通れない一大

    • 鈴木大拙の見性内容

       大拙先生は、渡米前の1897年(明治30年) 、27才のとき、釈宗演老師のもとで、これが最後との思いで命がけで「無字」に取り組み、12月の臘八接心にて、見性に至りました。そこに至る経緯については、小川隆先生の「禅思想史講義」に簡潔にまとめられています。下記引用は、後に、大拙がアメリカから生涯の友である西田幾多郎に当てた手紙の抜粋です。  上記の引用から、大拙の見性経験の核心を明確化してみたいと思います。  この部分が、大拙の見性経験の事実です。自分自身を忘れ去ったという

      • 鈴木大拙に「体用論」はあるのか?(2) ~蓮沼直應氏の体用論~

         蓮沼直應氏は、小川隆氏と同様に、「大拙の体用論」という言葉で鈴木大拙の思想を跡づけようとします。(本投稿では現代的に「たいよう」とします。)しかし、大拙は体系家ではないので、固定的な言葉の使い方はせずに、むしろ、文脈ごとにニュアンスを変えて、言葉を自由に使っています。大拙の「体用観」ということならまだ分かりますが、筆者には、「大拙の体用論」というのはないように思われます。  蓮沼氏は、大拙の思想を知的に分析して、その変遷を辿り、大拙の「体用」観の変化を考察していきます。氏

        • 鈴木大拙に「体用論」はあるのか? ~小川隆氏の体用論~

           はじめに、鈴木大拙は、二分性の分別を凌駕する「無分別」「不二」「即非」の解説者です。世界を固定的に「体」と「用」とに二分して語るようなことはあまりしない気がします。体用を語るときには、むしろ、「体は用で、用は体だ」と、回互的に語るのが、普段の大拙の語り口です。  ところが、「禅思想史講義」(春秋社、2015年発行)で、著者の小川隆氏は、「大拙の体用論」という節を設けて、以下の図式を提示しています。  小川先生は広く大拙の著作を研究して、これを大拙の思想として紹介しているの

        精神と霊性 ~知の衝突~ 大拙思想の要諦

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          鈴木大拙の「即非の論理」とは ~般若系思想~

          更新 2024年5月13日  鈴木大拙の言葉に「即非の論理」があります。この不可解な論理を明快に説明することはとても難しいです。先生は即非を、霊性の論理で禅の論理だと言っていますが、易しく言い直せば、言語道断・不立文字としてもいいかもしれません。「そくひ」、「すなわち・あらず」、「yes and no」、これは人が言語思考を静め、知性を超えた不生の位相を一瞥して、初めて体感される超知性的論理です。従って「即非」は、文献学的あるいは論理的アプローチで解析できるシロモノではあり

          鈴木大拙の「即非の論理」とは ~般若系思想~

          鈴木大拙「日本的霊性」Keyword で見る

          更新 2024年5月5日  今回は、1944年(昭和19年)、大拙73才のときに、大東出版社から発行された『日本的霊性』(以下、同書)について、下表で、他の書籍と比較しながら、目立つ Keywordを拾っていきたい。書籍毎に文章量が大きく異なるので、総ヒット数も参考にして眺めてみてほしい。  「霊性」の文字から始めよう。「霊性」は同書には754回、また、3年ほど後に発行された『仏教の大意』には172回出てくる。そして、タイトルにもなっている「日本的霊性」の文字については、

          鈴木大拙「日本的霊性」Keyword で見る

          日本的霊性 抄(要点まとめ)

          鈴木大拙著「日本的霊性」の入門的紹介 (Note 更新 2024.5.19) はじめに  鈴木大拙の「日本的霊性(i)」は、仏教を題材にして、霊性を探究していく。太平洋戦争末期の言論統制の下にあって、本書で大拙は、無鉄砲な「日本精神」の宣揚をやんわり批判する。戦後に発行された続編では、今度は明示的に「御稜威」の思想を批判している。戦争が世界に再び蔓延しつつある令和の今、平和を願うすべての人に読んで欲しい良書であり、また大変な難書でもある。  結論から言えば、大拙のいう「霊

          日本的霊性 抄(要点まとめ)

          鈴木大拙の不生思想 「ただ不生のまま」

          更新 2024年5月12日  盤珪禅師は江戸時代前期に活躍された臨済宗の僧で、いわゆる不生禅の生みの親である。禅師は「不生を念に変えるな」、「30日間だけ念を消す努力をしてごらん」と言う。  (不生禅の要旨は ↓ 参照)  この不生禅だが、後世に残された盤珪禅の聞き書きを読むと、「仏心」の文字が目立っている。また、現在世に出ている解説書を見ても、盤珪が「不生」とのみ言っているところを「不生の仏心」と修正していることが多いようだ。なぜかというと、現代の仏教者がこの「不生」

          鈴木大拙の不生思想 「ただ不生のまま」

          識在 ~物質は記憶と意志の粒~

           〜精神と物質の統一理論〜 更新 2024年5月13日 二元的一元性  識在を、認識と存在の二要素に分けている限り、精神と物質の本当の関係を理解することはできない。鈴木大拙は、精神と物質の架け橋として「霊性」という文字を用いたが、どのような言葉を使ってみても、言葉の世界にいる限り、二分性の罠を抜け出せはしない。言葉で呼び分けている限り、精神と物質を隔てる溝は決して埋まらない。そこに留まっていては、個人の意志と物質運動の間にある神妙な関係を知り尽くすことはできない。  

          識在 ~物質は記憶と意志の粒~

          見性意識の原点 〜悟りの境〜

          更新 2024年5月16日 はじめに 春は花、夏ほととぎす、秋は月、冬雪さえてすずしかりけり。それも結構だが、誰がこれを言うのか。また、名月をとってくれろと泣くという、それは一体誰がするのか。自分が自分を探す二分性の旅には終わりはありません。ただ回頭し、即非の目で見れば、結論は決まっています。 今此処に 宇宙の自然をせり上げて 自由な自分がいる  仏教宗派はすべて、現世で苦悩する人々を悟りの安心に導こうとしています。悟りなくして仏教はありません。本論では、仏教的世界観を

          見性意識の原点 〜悟りの境〜

          90歳代の大拙「東洋的な見方」Keyword で見る

           こんにちは。鈴山です。  大拙の晩年93歳頃に発行された『東洋的な見方』と、95歳頃発行の『東洋の心』には、90歳前後に書かれた短編が収められています。ここでは、『東洋的な見方』に出てくるキーワードを多く出てくる順に並べてみました。これら二冊の本には、「即非の論理」「超個」「宇宙霊」などの文字はあまり出てきません。「霊性」の文字は『東洋的な見方』に20回出ていますが、『東洋の心』には4回しか出てきません。意外なのは「華厳」で、『仏教の大意』以降は増えているのかと思っていま

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          「趙州無字」と「不生」 鈴木大拙の解説

           こんにちは、鈴山です。  禅で最も有名な、趙州和尚の「無字」について、鈴木大拙の解説を見つけましたので、ご紹介します。これは、盤珪禅師の「不生禅」の説明の中に出てきます。  大拙は、つづけて、趙州和尚の「無字」について、以下のように説明します。長いので、説明文章は一部省略します。  ここにも、大拙のいう「禅の思想」、すなわち「矛盾同一」が見てとれると思います。もうひとつ、大拙は不生禅について、つづけて、以下のようにいいます。  分別難、行為の上では有も無も無く、何の

          「趙州無字」と「不生」 鈴木大拙の解説

          大拙禅学まとめ図

           2020年9月、龍雲寺での、円覚寺横田南嶺管長のご講話「鈴木大拙に学ぶ」がとても素晴らしく、管長の図式をアレンジして、大拙思想の要点を整理してみました。(管長オリジナの図式は、下のリンクからYouTubeでご覧になれます。)  まず、大拙思想の中核をなす用語のひとつの「超個の個」という言葉の位置づけです。これは、見性経験に伴う個人のあり方の変化として示すことができそうです。 分別 ⇒ 無分別 ⇒ 無分別の分別 個  ⇒ 超個  ⇒ 超個の個 図1 見性による個人の在り

          「当軒の布鼓」大拙の「禅の思想」より

          更新 2024年4月14日  孔子は「四十にして惑わず」と言いましたが、筆者は六十年をかけて、「少し惑わず、なが~く惑わず」で行きたいと思います。それはそれとして、布枠庵という雅号ですが、禅経験の中には枠がないと、それを現したものです。自分もない、他人もない、個物もない。ただし、本当は「無い」というと嘘になるので、自分も他人も森羅万象もありますが、確固とした区分けはない、差別がないということで、固い枠は無いぞという気分を表しています。動見不二の現前意識とは、そのような場です

          「当軒の布鼓」大拙の「禅の思想」より

          大拙さん、誕生日おめでとう。

          忘れるところやった。 今日は、鈴木大拙の誕生日。 旧暦では10月18日ですが、 新暦に変わったときに11月11日、 エンジェルナンバーの1111になった。 笑える。 遅くなってごめん。 誕生日おめでとう。

          大拙さん、誕生日おめでとう。

          鈴木大拙「禅の思想」Keyword で見る

          更新 2024年4月14日  今度は、大拙の「禅の思想」のキーワードを多く出てくる順に並べてみました。2021年3月岩波文庫発行の文庫版の巻末の解説で、鎌倉円覚寺の横田管長は、禅の思想という本は「無分別の分別」「無功用」「無作の作」を中心に書かれていると説明します。そして、「禅語録、禅行為、禅問答を通して一貫して『無分別の分別』『超個の個』が縦横無尽余すところなく説かれていて、実に妙である。」と、その解説を締めくくります。  なるほど、「無分別の分別」というキーワードが他の

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