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【本当にこれでいいのか?】

本当にこれでいいのか?というお話。

本当にこれでいいのか?というのは
何か自分は誤魔化していないだろうか?
という意識の問いかけになります。

その前に意識とは何か?

簡単にいうと
何かむかつく出来事があって
怒っている自分がいるとします。

怒っている自分は感情があらわになった状態で、
自分は怒っているなと認識するもう一人の自分、

これが意識です。

怒っている自分を理性で抑えるというのは
意識がないとできません。

感情を抑えられない人というのは
意識が発達していない人といえます。

その意識ですが、
これは訓練をしないと発達しません。

これからあげる例は
私にあわせたレベルの低い訓練となります。

私、よく買い物で買い忘れが多いので
なんとかしたいと思い、
メモをするようになりました。

大体2~3個、多くても5個くらいなのですが。
一応、スマホのメモに記入。

スーパーに到着して、
まぁ覚えているのでメモを見なくてもわかるはず、
でメモを見ずに買い物を済ませてました。

するとですね、買い忘れがあるんです。

少ないから覚えているはずなのに
忘れている。

これを何度も繰り返しました。

メモの存在自体は忘れてはいないので、
今度は
『必ずメモを見る』
ということを意識しました。

スーパーについて買い物をはじめる、
いやいや覚えてるよこれくらい
と思ってしまうのですが、

『必ずメモを見る』と決めたので、
メモを見ます。

買い物の最中に確認するので、
『必ずメモを見る』と決めていった時は、
買い忘れがありませんでした。

私、これなんで
こんなに買い忘れを繰り返してたのか。

自分の行動をよくよく振り返ったんです。

スーパーに着くと、
商品に目移りしてしまい、
頭の中で覚えてたものを忘れてしまう。

そして少ないから
メモを見なくても覚えているはず、
という思い込み。

家に帰ってから
今日も買い忘れがあったと後悔する。

この一連の流れの中に
『本当にこれでいいのか?』
を加えました。

スーパーに着くと、
商品に目移りしてしまう、

の前に

先にメモを見なくていいのか?

メモを見て、
あ、そうだそうだこれとこれとこれ。
といってメモを見て思い出したのはいいが、

他のものも見たい衝動にかられ、
別のものを見る。

ということをする前に、

先にメモに書いてあるやつを
かごに入れてから他のものを
見るべきではないのか?

自分の一つ一つの行動に
チェックを入れるんです。

本当にこれでいいのか?

そしたらできるようにあなりました。
めちゃくちゃちっちゃい事なのですが、
出来たときは、あ出来た!やれば出来るじゃん!と
ちょっとだけ嬉しくなります。

でも、これよくよく考えると
何か気づきませんか?

こんなのどう考えても誰でもできます。
子供でもできます。

ということはつまり、
出来ないことが出来るようになった
のではなく、

自分がただただ面倒でやりたくないことをやった。
という話しなんです。

だってスマホのメモにしても、
カバンからいちいちスマホを取り出し、
フェイスIDでロックを外し、
メモを見なければいけない。

メモに書いてある物を
かごに入れてから他の物をみるとなると、
スーパーをあちこち歩かなきゃいけない

野菜売り場にいって
牛乳売り場に行って、
また野菜売り場にくなんて
手間はしたくないんです。

その面倒くささから
先に他の商品をみておきたい。

これをですね、
何かと理由をつけて
あたかも出来ない風に誤魔化してるんです。

こういうこと結構在りませんか?

あとでやればいいや、
という思いは
どこかで、
今やりたくないという思いがある。

買い忘れもですね、
今度買えばいいやとかやってると、

雨が続いたり、
体調崩したり、
買いにいったとき品切れしてたり。

LINEでもメールにしても
返事しないとなーと思いつつ、
後回しにする。

そこにはすぐに返信すると
暇な人だと思われてしまう。とか

面倒な内容で返信を考えるのが嫌。とか

だから
忙しくてすぐに返信できなくてごめんねーなどと
あたかも忙しかったかのように振る舞う。

ちっちゃいですよ、
とてもちっちゃな事なんですが、
そのちっちゃい出来事の行動パターンの集まりで
自分の人生は形成されているんです。

誤魔化し誤魔化し生きてきた人は
やりたくないというのを
できないと誤魔化してきた人生に
仕上がっているということです。

断っておきますが
ケーキとクッキーどっちがいい?
自分は今ケーキの気分、
自分の気分を誤魔化さずケーキにする!とかいう
欲望の選択の話しではありません。

自分の気分に従うとか、
感情のままに従うとかではありません。

客観的に観て、
意識でもって『本当にこれでいいのか?』
という自分の問いかけにこたえる。

この意識の問いかけというのは
自分を育ててくれる自分のことです。

でもですね、
育てられる方の自分というのは
まぁとにかく何とか誤魔化そうとする、
ずるをしようとする。

これもまた自分ですから。
どうすれば、
いかに自分を誤魔化せるかなんて
誰よりも熟知しています。

その誤魔化そうとする自分ではなく、
『本当にこれでいいのか?』という
育ててくれる自分の声に耳を傾ける。

この育ててくれる自分の声にこたえることって
大体面倒な事だったりします。
でもその面倒な方が実は正解だったりします。

さっきいったように

カバンからスマホをだして
画面のロックはずして、
ただメモをみるだけなんですが、

それさえも面倒に感じている自分が
いるということです。

だからやりたくない、
なんとか近道したい、

育てられる方の自分は
誤魔化しの言葉を投げかけてきます。

「メモなんか見なくても覚えているはず」
「忘れてもまた今度にすればいい」。

なんなら
手の甲にでも直接メモすればいいのに
それもしない。

後で手に書いた字を洗って消すのが面倒、
落とすのが面倒なところを

「字をかくと手が汚れてみえるのが嫌」
「恥ずかしい」

などといって誤魔化す。

でもこのちっちゃい事で
誤魔化しをしないようにする、
というところからはじめていかないと
駄目なんです。

規模がおっきくなってくると、
そのツケも大きいです。

例えば旦那が地方に異動になった。
3年はそこの勤務となる。

でも今住んでるところ長いし、
友達もいるし、
実家も近いし、
子供の転校手続きも面倒。

単身赴任してもらおう。でいいや。

でも、たまに帰って来れるにしても
はたして3年も子供と父親を離していていいのか?
旦那を一人にして
もしかしたら不摂生で病気になるかもしれない、
浮気もするかもしれない。

こうなるとツケは大きいですよ。

私が…あくまでも私がですが、
人生で一番難しいと思うのは
自分で自分を誤魔化さない事だと思ってます。

本当に些細な事なんですが、
この積み重ねって大きいです。

私はこの誤魔化し誤魔化しを
積み重ねてきてしまい、

何にもできない、
空っぽな人生が、
実績も何にもない人生を構築してきて、

もうここにきて
これ以上誤魔化すことはできない、
というピークに達してしまったんですね。

もうこれ以上自分に嘘はつけないと。
本当にこれでいいのか?
本当にこのままでいいのか?と。

これは私の考察になりますが、
ほとんどの人が
苦しい苦しいといってるのは、
誤魔化しつづけてる結果ではないか?
と思ってます。

自分のおかれている環境に苦しい、
人間関係に苦しい、
人生に苦しい、

でもそれを何とかしようとですね、
なんか変なサプリ飲んだり、
薬で誤魔化したり、

挙げ句の果てには
スピリチュアルや占いに依存してしまったり。

身体もですね、
ここが痛いあそこが痛い、というのは
誤魔化して使ってるから
そういうことになるんだろうなと。

でも誤魔化さなければ
そんな薬だのなんだの必要ないのではないか?

私は、大体一人において
ちっちゃいことに関しては
誤魔化さないができるようになってきました。

ただ、
私の今後の課題はこれが複数人、
集団の中で誤魔化さないでできるか、
ということになります。

人にあわせるクセがついてると
誤魔化しがはじまります。

誰かに気をつかうことも
誤魔化しをします。

誰かによく思われたいと思っていると、
これもまた誤魔化しに繋がります。

でもこれってよくよく考えると
他人の評価を気にしているせいで
こうなってしまいます。

他人からの評価が全てだと
みんな思っていないだろうか?

自己評価はそこにないのか?
さっきもいったように、
やれば出来るじゃんという
自分のちょっとした出来た時の喜び。
てごたえ。

ちっちゃいけれど、本当に些細な事だけど、
この自己評価に私は意味があると思ってます。

あとがき:
まぁ簡単に言うと、
自分の中に関所を作れみたいな感じですかね…

自分の行動一つ一つを精査する。

何か自分は誤魔化していないだろうか?

自分は本当に正しいのか?

自分はまともだ、
間違ってない、
と思う心。

そこに確かな根拠があるのか?
自分で答えを見つけているのか?
自分で試行錯誤しているのか?
他人の言葉を価値観を自分のものさしにしていないか?

誤魔化さないで生きる。

本当にこれでいいのか?

スタートラインにも立ってない人は

本当にこのままでいいのか?


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