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埼スタから駅のベンチ、銭湯まで。浦和はサッカーに覆われた街だった。

 サッカーのまちと聞いて、あなたはどこを思い浮かべるだろうかーー。

 サッカー王国と呼ばれる静岡や海外強豪クラブの所在地、はたまた自分が応援するクラブのホームタウンを思い浮かべた人もいるはずだが、「浦和」と答えた人も多いはずだ。

 浦和にはJリーグ屈指の熱狂的なサポーター擁する浦和レッズの存在がある。それに、冬の選手権において浦和の高校は過去に何度も優勝している。ネットで「サッカーのまち」と打つと検索候補として浦和が最初に表示されるほど、サッカーの地として有名だ。

 さらに、「浦和」とGoogle検索するとページの1番上には浦和レッズが表示される。

 ※地名だけでGoogle検索したとき、ページ最上位にチーム情報が表示されるのは、J1では他に鹿島アントラーズと清水エスパルスだけであった(12月16日時点)。



 最上位にクラブが表示される理由として、浦和自体が有名な観光地でないことも関係しているだろう。また、都道府県でなく、市区単位で地域の名称が入っていることも影響しているはずだ。変な話、クラブ名が「埼玉レッドダイヤモンズ」ならば表示順は変わっていたかもしれない。  

 それでも、「浦和」だけで検索したにも関わらず浦和レッズが1番最初に表示されるというのは、それだけ街にサッカーが浸透しているということのあらわれだろう。

  しかし実際に足を運んだことがない自分にとっては、浦和には一体何があるのか、なぜサッカーのまちと呼ばれているのかは分からない。

 それならば自分の目で確かめてみよう……ということで今回はサッカーのまち・さいたま市浦和区を巡りつつ、12月12日に開催された天皇杯準決勝・浦和レッズvsセレッソ大阪を観戦してきた。


 ちなみに、株式会社西葛西出版を版元として、我らがOWL magazineブランドで『"サッカー旅"を食べ尽くせ! すたすたぐるぐる埼玉編』という書籍が発売されたのをご存じだろうか。実は、今回の旅の内容は、書籍にて中村慎太郎さんとほりけんさんが執筆した浦和の項と少々被っている点がある。まだ読んでいない方は下見だと思って、既に読んだ方はおさらいだと思って本記事を楽しんでいただければ幸いだ。

 また、この書籍では浦和の他にも大宮や川口市、入間市なども登場する。埼玉県へサッカー旅に出る際のお供として勧めたい。



浦和の原点はレッズにあらず

 さて、今回の試合会場である埼玉スタジアム2002の最寄りは浦和美園駅だ。しかし、浦和美園駅の周辺は住宅街であり、特に何もないということをどこかで聞いたことがある。

 また、先日放送されたタモリ倶楽部では「浦和総選挙」なるものが行われ、浦和と名の付く8つの駅に埼玉県民が順位を付けていた。その企画で浦和駅が1位に輝いており、そこがどういう場所なのかずっと気になっていたのだ。

 ということで、まずは浦和駅に到着。改札を通り外に出たところ、わずか10数秒の間に、浦和レッズのユニフォームを着た人と3人すれ違った。

 浦和区民のサッカー愛に面食らいつつ西口に行くと、「URAWA SOCCER TOWN」の有名なオブジェクトが。さらにその隣には「サッカーのまち We are REDs!」と書かれた看板が立っており、浦和区におけるサッカーと浦和レッズの存在感をいきなり思い知らされた。


 そして、お腹が空くまで駅の周辺を散歩しようと思い、サッカーに関連するスポットを調べることに。目を付けたのが、「埼玉サッカー発祥の地」である埼玉師範学校の跡地だ。

 この場所と歴史を知るまで、浦和がサッカーのまちと呼ばれるようになった発端は浦和レッズだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。詳しく書かれたサイトから引用する。

 浦和のサッカーの始まりは1908年(明治41年)。埼玉師範学校(現在の埼玉大学教育学部)に着任した細木志朗先生が東京高等師範で学んだサッカー(当時は蹴球)を埼玉の地でも根付かせようと蹴球部を創設したことに始まる。

(中略)

その後、埼玉師範学校でサッカーを教わった先生たちが埼玉各地でサッカーを広めて、「埼玉を制するものは全国を制す」という言葉が残る、サッカー王国と言われるサッカー文化が根付いていくことになる。今でも浦和では、老若男女がサッカーを共通言語にできるのは、この長い歴史から来ているものだろう。

浦和はなぜ「サッカーのまち」なのか?【サッカーの街・浦和ヒストリー】

 つまり、浦和レッズの前身である三菱重工サッカー部が創設された1950年よりも前から、この土地にはサッカーが文化として根付いていたということだ。この事実を知り、すぐに埼玉師範学校の跡地である、さいたま市役所へと向かった。

 そこには「埼玉サッカー発祥の地」と書かれた像が。横には「埼玉師範の全国大会で初優勝を飾ってから六十周年目の本年、埼玉サッカー発祥の地の記念碑を建設いたしました」と書かれた碑文があった。

 ちなみに、この埼玉師範学校の校舎である鳳翔閣は、埼玉サッカーの象徴として浦和レッズのエンブレム上部に描かれている。

 この街でサッカーを発展させたのは浦和レッズだけではないと知ることができ、また1つサッカーについて詳しくなれたような気がした。



 さて、浦和駅からさいたま市役所まで2kmほどあったので、歩いているとさすがにお腹が空いた。浦和区内で美味しそうな飲食店を探すため、再びiPhoneを開く。目を引いたのが、今シーズン限りで浦和レッズを退団することになった槙野智章の行きつけという、手打ち蕎麦の寺田家だった。


 店の最寄りは与野駅だったため、歩いては行くことはできない。再び浦和駅に行くことにした。


サッカー要素がいっぱいの浦和駅


 浦和駅に戻り、改札へ向かおうとしたのだが、先に「URAWA SOCCER STREET」というものが目に入った。何だろうと思って足を踏み入れると、そこはまさに浦和レッズのために作られた場所であった。

 どうやらここは浦和駅の東西連絡通路と西口中ノ島バスターミナルを結ぶ50mほどの地下通路のようだ。この50mの中に、これでもかというくらい浦和レッズの歴史や魅力が詰まっている。

 通路の両サイドはクラブのカラーである赤に染められており、オフィシャルショップや、ミスター・レッズこと福田正博たちが実際に着用した歴代ユニフォームなど、浦和とサッカーに関するもので溢れていた。

 せっかくなのでオフィシャルショップ「RED VOLTAGE」に入店。驚いたのが、お客さんの多様さだ。自分と同じような若い男子から70代くらいの女性まで、老若男女問わず幅広い層の方が来店している。さらに、近くにいた小さな男の子は店内の洋楽っぽいBGMを口ずさんでおり、何度も訪れていることがうかがえる。クラブがどれだけの人に愛されているか実感できた気がした。

 そして自分はこの店で、大好きなセサミストリートのキーホルダーを発見。10年以上エルモを推している身としては、かなりテンションが上がった。迷わず購入し、与野駅に行くため京浜東北線の2番ホームへと向かう。


 ホームに着き何気なく座ろうとすると、すぐに違和感に気付く。ベンチが六角形なのだ。なんか珍しいな、と思った。

 それだけではない。座る部分にはアクリル板を挟んで芝生が設置されている。

 「え、芝生!? ということは、六角形はサッカーボールの模様を表していたのか!」

  明らかにサッカーを意識したものだと分かり、立ち上がってみると、「埼玉スタジアム2002の芝を再利用したエコベンチです」との説明が。いくらサッカーのまちと呼ばれていても、まさかここまでだとは思わないでしょ……。あまりのサッカー推しっぷりに衝撃を受けていると、電車が到着した。



閑静な住宅街にもサッカーの存在あり


 与野駅に到着。あまり栄えていない場所なので、人通りはない。それに浦和駅から2駅離れているせいか、さすがにこの周辺にはサッカーや浦和レッズ関連のものは見られない。いくらサッカーのまちと言えどもここまでか……。と思ったその時、下を見るとマンホールがサッカーボールの模様であることに気付いた。全く油断ならない。浦和区はどこまで行ってもサッカーを感じさせてくれる。



 そして手打ち蕎麦の寺田家に着き、中に入るや否や、目に飛び込んできたのは浦和レッズのカレンダー。レジの近くにはクラブの雑誌も置かれていた。閑静な住宅街に居てもサッカーと浦和レッズを、そして美味しいお蕎麦を味わうことができるすばらしい街だ。


 食べ終わったころには14時過ぎ。16時から試合が行われる埼玉スタジアム2002へ向かうべく、今度は浦和美園駅へと急いだ。


カレンダーには、今季柏レイソルに完全移籍した武藤雄樹の写真が。


噂にたがわぬ、レッズサポーターの熱狂ぶり

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