Anonymとディミニューション

16世紀~17世紀、Anonym や Anonimous となっている楽譜がある。
この頃は作曲家が誰であるかはそれほど重要ではなかったこともあり、作者不詳の曲が結構ある。
もちろん作曲家の名前が明記されていても、贋作である可能性は捨てきれなかったりする。
贋作は今日のような犯罪ではなく、それにより審美眼のある人々を欺けるほど高い芸術性を持っていることの証だったらしい。
作曲家崇拝は現代特有の「正典主義」や「権威主義」なのだろう。

この 作者不詳の"Galharda" もカベソンの曲のような印象を受けるが、17世紀イベリア半島の誰かさん作のようだ。
カベソンの曲のように感じられるのは、その時代その地域の音楽が持つ様式感がそう思わせるのだろう。

この曲を譜面通り弾いてもそれなりに美しいが、やはり様式に適った演奏をしてみたい。
12小節目からバスの声部に「書き出された装飾」が提示されている。
本来ここも二分音符で記載されていてもおかしくないと思うが、作者はこのようにバスを弾いて欲しかったのか、もしくは範例として書き出したのか、自分にはわからない。
ソプラノ声部にも所々書き出された音形が見受けられ、曲の骨格としてここはこう弾いてくれということなのだろう。

では、何も装飾されていない二分音符はそのままでよいのだろうか。
いや、ここはひとつ当時の様式に適った装飾を施してみたい。

16世紀の音楽的装飾、変奏、ディミニューション。
それを学ぶために「オルティス 変奏論」を読み進めている。
上記はそこに書かれている装飾方法のほんの一例だが、これを実践するだけでも音楽に生命力が宿ると思う。
まずはパターン化された範例を覚えて、可能なら即興で様式に適った装飾を施せるようになりたいところ。

ここに示した楽譜のように、この時代の譜面は単純そうに見えるし、鍵盤楽器経験者が楽譜通り弾くのは難しくないことだろう。
譜面が単純なのは、どのように装飾して弾くかをわざわざ書かなくても音楽家は承知していたからだ。
みんなが当たり前に知ってることを書く必要もないし、どのように弾くかの答えは演奏する度に変わるのだから書きようがない。
楽譜はそれ自体で完結する完全な音楽作品ではなく、あくまで素材でしかない。
演奏者が単純な譜面を即興的に装飾・変奏して奏でた時に初めて音楽として完成する。

チェンバロでスペインものをもういちど学び直し、 ディミニューションを身に付けたいと思う今日この頃。