夜間航路 -時雨降る薔薇の丘-

――嵐。

隊列を率いる少女の姿をした影が、荒れ狂う嵐の中を放り出されたように漂っていた。『それ』の数は、少数。波に対する影の小ささもさることながら、人数の少なさが、一層状況の過酷さを物語る。

『それ』……『彼女たち』艦娘の隊列の先頭は険しい顔で海面をにらんでいた。少人数での任務中であった上にこの嵐では索敵も満足にできず、旗艦の肉眼観測だけが危険回避の唯一の手段だ。1時の方角、はるか彼方に渦潮と思われる海流の乱れが見えた。すぐさま進路をやや左方に移す。

依然として、無線は何も言ってこない。

出発時にはあれほど輝いていた星々も、今は厚く覆われた雲に阻まれて何も伝えてはくれない。自分達は本当に佐世保鎮守府に向けて航路をとれているのだろうか。最悪、正しい航路がとれていなくてもいい。とにかく無線だ。直近の鎮守府がどこなのか、そして近辺に波をしのげる場所はあるのか。最悪浅瀬に座礁してしまえば、轟沈は免れる。恐らく衝撃で艤装はだめになってしまうだろうが、そこで天候の回復を待てるだろう。幸い、この少女程度の体なら隠してくれる物は丘にはいくらでも存在する。

対深海棲艦の決戦兵器といっても、この程度の物だ。『それ』は表情を歪めずにはいられない。今はただ、ひたすらに前を見つめ、些細な波の変化も見逃さぬように目を凝らし続けるしか、運命にあらがい続けるしか生きるすべはなかった。

ところ変わって、艦娘の所属する鎮守府。荒れ狂う天と地の暗闇も、ここへはかすかな余波を届けるのみ。しかしながら次第に強くなる雨風は、闇が、運命のうねりが近づいてきていることを予感させているようでもある。提督はただ一人、深夜の執務室で、報を待っていた。既に他の鎮守府には支援要請を出している。わが鎮守府に向かっているという情報が得られればいいが、最悪、どこかの鎮守府が偶然とらえた信号でも何でもいい。とにかく、情報が欲しかった。

既に勤続時間は基準をゆうに超えている。しかし頑なに持ち場に残り続けるのは、ひとえに場を収めるのが自分しかいないという使命感ゆえからだ。年端のいかぬ少女の姿を持った鎮守府の守り人たち。彼女たちを救わねばならない。それが出来るのは、経験、責任、権限、すべてを自分が備えているからこそ。そう思っていた。今回の航海の危険性を承知で彼女たちを送り出したのもまた彼自身であるのだが、その使命感を彼が疑う事は無い。

その傍らでは、嵐の中にある秘書艦の代理で指令の横に立っている艦娘が、何かを言いたそうに提督の表情をうかがっていた。しかし何か決定打になりそうな案があったわけではなく、その仕草は言葉を発するべきであるかどうか、言葉を発するとすればどうすればよいかという思考にただただ支配されているようだった。提督はそんな秘書代理の様子には構わず、少し疲れた様子で、しかし毅然とした表情を崩さずに佇みながら、知らせを待っていた。

窓をたたく風の音はいよいよ激しくなり、運命の時が近いことを知らせているようだ。

嵐はまだ当分、やみそうにない。

「……と、言う話を思いついたんだ」

久しぶりに提督室に呼ばれたのでなにかと思えば、提督の口から語られたのはそんな物語の断片だった。

「……なんだい、それ。サン=テグシュペリの真似事かい?」

時雨はそういって言葉を返す。

「そもそも、僕らは嵐程度じゃ沈まないよ。」

「そうだな。そりゃあ、そんな可能性があったらこんな話、考えないさ。縁起が悪すぎる」

ふふ、それもそうだ、と時雨は苦笑いした。提督もばつが悪そうに笑い、和やかな空気が雨の鎮守府の指令室に流れる。今朝方からぽつぽつと降り始めた雨は、空を曖昧な色に染めながらまだ降り続けていた。風は少ない。ただ雨が屋根を微かにたたく音だけが、静かに部屋の中へ響いてくる。

「……でも安心したよ」

ひとしきり空気を味わった後で、話題を移すように時雨が呟いた。

「何がだ?」

「いや。まだ、そんな話をしてくれる提督でいてくれたんだ、ってね。」

提督はまたばつが悪そうな顔をしている。提督のこんな表情を見るのは僕だけかもしれないな、などとちょっとした優越感に浸りながら、つづけた。

「提督の興味は、すっかり別なものに移っていたのかと思っていたからさ」

「いや、それは……まぁ、な。」

今度は困ったような顔をしている。少し意地悪を言い過ぎただろうか。

「冗談だよ、司令が一度触れた物を簡単に捨てるような人間じゃないってことは、分かってるつもりさ。でも、ね。やっぱりちょっと妬けるな」

「今日は中々に辛辣だ。」

そう言って頭を掻いている提督。少し新鮮な光景だ。こんな所かな。時雨は次の言葉を意図的に声色を変えて切り出してみた。

「提督。」

「なんだ?」

「何故、『僕ら』と接してくれてるんだい?」

「さて……な。決めたから、じゃあ、ダメか。」

「きょうはちょっと足りない、かな。」

む、と呟くと真剣な顔をして腕組みをして考えている。これまた珍しい。

「強いて言うなら興味……だな。俺には昔、強く興味をそそられる大切なものがあった。しかしその時の俺は、それに気付かず別なものに時間を浪費していた。そして、今は俺がその大切なものに、直接的に時間を費やすことは出来ない。だから俺は、今興味があることから目をそむけたくないんだ。」

そう話す提督の言葉から、僕は自然とある小説の一節が浮かんだ。何の気はなしに、口にしてみる。

「『君が、君のバラの花を愛おしく感じるのはね、君自信がそのバラのために時間を使ったからなんだ』」

「……『星の王子様』の一説だったか」

「そう、夜間飛行と同じ作者さ」

「残念ながらそのセリフが星の王子様の一説だ、という事以外は何も知らないんだ。すまない」

「それで十分さ。」

(むしろそのことだけでも知っていたことに僕の方が驚いたくらいだ)

だって提督には、自分と近すぎるものはあえて触れないでおく癖があったから。その位にこの物語は、提督にぴったりなんだ。

「……彼には故郷の星に一輪残してきた愛おしい薔薇との思い出があった。地球へ来て野に咲く薔薇の群れを見つけた時、彼は故郷を思って涙するんだ。そして同時に、他の何物にも代えられない、たった一輪だけだと思っていた花がこんなにもありふれた物であったと知る。この薔薇たちは自分の心を埋めてくれるのだろうか。そうしたら、あの故郷の星に残した薔薇は。そう悩む。」

提督にとって、僕たちは野に咲く薔薇の花と一緒。提督はいつも、一輪だけの薔薇を見ている。そんな気は、確かにしていた。やっぱりこの話は提督にぴったりだ。少なくとも、ここまでのところは。この物語には、続きがある。そしてその続きが、恐らく提督がこの物語を必要としないであろう理由が存在する場所だ。

「だけど提督ならもうその薔薇が、今ここにある薔薇とは別なものであると知っているんじゃないかな。それでもあの薔薇ではない道端の薔薇を、愛することが出来る。それはなぜだい?」

そう問いかけると、提督はそうだな、と一呼吸おいてから微かにうなずき、しずかに答えた。

「俺は君たちの中に、間接的に今まで時間を費やしてきたものを見ているのかもしれない。ここにあるのは俺が愛したあの薔薇じゃない。それでも確かに、薔薇なんだ。「あの薔薇」はもうこれ以上愛せなくても、薔薇そのものはまだ愛することが出来る。そう思ったんだろうな」

そうだ、提督は僕たちを見るときには同時にいろいろなものを見ている。あの子を見ているときも、僕を見ているときも。

(……貴方は、いろんな時、いろんな場所に薔薇を持って生きているんだろうね。)

「だから俺は、二つの薔薇が、いや、幾つもの薔薇がどう違い、どう同じなのかが知りたい。そうすることで、今はもう触れられないあの薔薇が、どんなバラだったのかをあの時よりももっと知ることができる。俺は、そう思ってる。そういうことなのかもしれないな。」

そう、そこが、提督が星の王子様と違うところ。星の王子様は失意の中でキツネと出会い、その提案で『絆を結ぶ』事を知る。それがどうあるかだけでなく、自分とどう関わったかによっても、物の価値が形作られている事を知る。……提督は一人、失意の中でも目の前のバラを手にした。きっとはじめは、無作為に。次第にそれぞれの薔薇の違いを知り、それぞれの薔薇の、自分への関わり方の違いを知る。そして次第により多くの薔薇を、思慮深く集め始める。僕たちは、そのバラの花束の一輪一輪。そして出来上がるのは彼にとって大切な一輪の薔薇を思うための、触媒としての薔薇の花束。

「それは中々に、残酷な答えだね。」

「そうだな、おれもそう思う。」

「でも、話してくれてありがとう。ずっと、不思議だったんだ。……残酷だけれど、でもとても安らかな答えだ。」

薔薇と役割を異にする、けれど大切な存在であるキツネは彼にはいない。代わりに彼が手にしていたのは、ありふれた、けれど彼の愛する薔薇とは違う。一輪として他と同じものはない色とりどりの、薔薇の花束。

 雨は依然として降り続けており、遠くまで続く鈍色の空は、鎮守府を包むこの空気がしばらくは去ってくれないことを伝えてくる。

「随分と降るな。」

提督は窓の外を軽く見やりながら、そう独り言ちた。

「雨は、いつか止むさ。」

時雨はもうすっかり口癖となってしまった言葉を添えて、答えるのだった。

いつもならば、そこで会話は途切れて、二人は自分達の思考に浸り始めるところだ。しかし、今日は少しばかり違った。先に口を開いたのは、提督だ。

「なあ、時雨」

「なんだい?」

「お前なら描けるか?闇を裂きながら明日を目指す航海の物語を。」

「どうしたんだい?いきなり」

「俺は『航海』というものの中に、まだ……お前と、かの作家の言葉を借りれば、『バラ』は見つけれていない。だがきっとそこにはバラがあると思ってるんだ。そのヒントに、な。」

僕から紡がれる物語があるのなら、触れてみたいという事だろうか。

「さあね、どうだろう。僕は艦娘だから。」

僕はひとまず、そう答える。記憶の中にある物語に思いをはせるとき、そして新たな様々な物語に触れるうち、自分で何かを生み出すということに興味を持ったこともある。しかし、実際に実行に移してみたことはなかった。艦娘には、感情はごくわずかしか存在しないといわれている。存在するのは自分達が作られたときにごく簡単に『設定』されただけの、平凡な、どこにでもあるありふれたもの。それが一般的な艦娘に関する情報だ。そんな自分に物語が書けるとは、僕には到底思えないのだった。

……ただし、それはあくまで一般論の話。野に咲く薔薇と同じくらいありふれた、そのバラを眺めるだけの大勢の人間の推論。

「……でも。きっと書けるとすればね、提督。僕が物語を紡げたとしたのなら、それはきっと、提督が紡いだ事と同義さ。そう思わないかい?」

もし自分が、この鎮守府で、自分が物語を紡げたなら。それれはきっと彼が自分というバラを手にして、時間をかけて接してくれたおかげであり、それはつまり提督が紡いだ物語に違いないのだと、僕は提督との会話でそう思うようになっていたんだ。

「随分とあいまいな表現をするんだな。」

僕の話を最初は驚いた様子で、最後には真剣な表情で聞いた提督は、不満そうな言葉とは裏腹に満足そうな表情で僕を見つめながら、そう言った。

「それが今の僕の限界って事さ。そして提督の。……そして僕と提督という関係の、ね。」

僕も一つの議題の締めくくりが近いことを感じながら、言葉絵を返した。提督は何かを言おうとして、その前に笑みを少し悪戯っぽい物に変え、口を開く。

「だが、その理論でいけば。もし俺がこれから物語を紡げたのなら、お前が紡げたこととも同義だな。」

彼の発した言葉は、単純な意趣返し。けれどそれは、とても正しいように思えて。

「ふふ、そうだね。」

僕は笑みこぼれるのを感じながら、更に続けた。

「もしそれが本当なら、僕らが出会った時にもう物語は生まれているのかもしれない。」

それを聞いた提督は何も言わず、ただとてもうれしそうに笑みを浮かべて、小さくうなずいた。ひょっとしたら、彼の頭の中ではもう何かの物語が産声を上げているのかもしれない。

「その物語がいつか掬い出される事を願ってるよ。」

僕がそう言うと、提督はああ、ありがとう。と笑った。

やり取りが一段落したのを感じて、時雨はふと振り返り、いまだに降り続ける窓の外の雨を眺める。

最近は乾燥気味な日が多かったのもあって、この雨が止めば彼方此方で一斉に花の芽が吹き出ることだろう。あたかもこれから近い将来、生まれようとする物語のように。

……願わくば、生まれてくる物語が提督にとっての薔薇の花束に加わる一輪にならんことを。そう時雨は静かに、願うのだった。願った先に生まれたイメージは、薔薇の花束を抱えた提督と、その向かう先に出会う――

「……さて、それじゃあ飛行士は誰になるんだろうね?」

「なにか言ったか?」

その問いに「何も」と答えた時雨の表情は、提督からはよく見ることが出来なかった。笑みを浮かべているように見える、その口元を残して。

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