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こんな時間に起きてしまって。

 子供たちの寝かしつけをしていたら自分も一緒に寝てしまい、少し前に目が覚めた。夜中の2時半。目が覚めてすぐに寝れそうにないのでこのまま起きることにする。

 先週まででたらめな働き方をしていて、10日間のうち4日間ほど徹夜作業があった。21時に寝て、24時に起きて、7時まで身体を動かす。多分まだ身体のサイクルが戻っていないので、この時間に覚醒してしまったのだろう。しぶとい疲れが身体の奥に残っていて、なかなか取れてくれない。

 家中に散らばっているものを適当に寄せて、夜に洗濯機を回してまだ干せていなかった洗濯物を干す。それまで干していた洗濯物を畳む。明日の朝ごはんのための米を炊く。2合。ほぼ日手帳とほぼ日5年手帳の4月4日分を書き込む。ほうじ茶を淹れる。冷凍おにぎりを解凍して2個食べる。それだけしてしまうと3時半になっている。

 明日提出しなければいけない資料がまだ7割程度残っているので、このままできるところまでやってみよう。いつまでこんな生活をしていくのか。ライフワークバランスなんてものは想像上の産物だ。ライフもワークも、バランスが取れずにジタバタすることを受け入れることしかできない。とはいえ、アンコントローラブルであるほうが楽、という側面もある気がする。自分でコントロールしようとする意思を少し放棄している感もある。40歳まで残り3年10ヶ月で、この辺りをどう変えていけるかが自分の課題だ。

汚いことばを使ってはいけないとか、ネガティブなことばを使わないほうがいいとかいうのは、まったくそのとおりだと思う。いちおうはことばに関連した仕事を続けてきた身として、自分や他人のことばに敏感なほうだとの自覚もある。 けれど、たまにカラオケで大声を出すように、バッティングセンターで白球を打ち叩くように、どこかに「ことばのブレーキを外す時間」を設けることも、こころの平穏には大切だと思うのだ。そして「ことばのブレーキがいらない関係」が必要だと思うのだ。少しくらい口が滑るようなことがあったときにも「疲れてるんだね」と、こころで笑ってくれるような関係が。 「言いたい気持ちはわかるけど、まずは言える相手を見つけようね」ということなんだろう。書いてて自分で、答えが出ました。

 古賀文健さんの最新のnoteを読んでハッとする。完全に僕も同じことを無意識に感じていて、それを言葉にしてくれたからだ。モヤモヤする、イライラする、それを誰かにぶつけたいと思っていたが、「それを言っちゃあおしまいよ」的発言になりそうで。でもぶつけないと収まりがつかなくて。みたいな、疲れていると相変わらずメンヘラ感が強くなるのだが、古賀さんのおかげで、それは自分のなかで収めることができそうだ。

 Twitterを見ていたら流れてきたNHKのアーカイブ。若い3人の俊英の姿に、胸が締め付けられる。あり方の軽さ、音楽性、思想など、さまざまな面において僕は細野さん派だったのだが、折に触れて坂本龍一さんの音楽に心を慰められてきた。

 加えて言えば、僕はいつでもポール・マッカートニーの側についている。普段聞くのもポールばかりだ。ビートルズの曲で一番好きなのはホワイトアルバムに収録されている「マーサ・マイ・ディア」だ。でも、というか、なのに、ジョンの声を強く求める時がある。今日のような、深夜に起きてそのまま眠れなくなったときがそうだ。

 音楽は心の深いところで人を救ってくれる。残された人は、残してくれた作品にすがりつづける。音楽と自分の経験をブレンドしながら都合よく解釈して「自分のための音楽」だと勘違いしながら、救われるしかないのだ。

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