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多様性を認める危険性

最近(ここ一年くらい?)で、「多様性」、「ダイバーシティ」という言葉をよく聞くようになった。

多様性を認めるとか、LGBTQとか、要は自分と違う人を受け入れようという話らしいが、私にはどうもうまく馴染めない。

アメリカに行った知り合いは、アメリカは、しっちゃかめっちゃかだと言っていた。

日本はどうだろうか。どちらかというと、理路整然と整備されていて、それをよく表しているのが「出る杭は打たれる」だろう。または「金太郎飴」か。

今回はこの「多様性」に関する私のモヤモヤについて、書かせていただきたいと思う。

そもそも多様性とは?

多様性と聞くと、前述の通り、自分以外の価値観を認めるということだろうが、これは何が正しいかを論ずるのに似ている気がする。

要は、自分以外の価値観を認める多様性という考えが正しい、と今のブームになっているように感じる。

これは古代ギリシアの時代でも流行った。ポリスが拡張してきて、隣のポリスと接する機会が増えた。そうすると隣のポリスとは自国と全然違う文化を持ってたりするわけだ。そうなるといやでも自分とは違う存在を意識せざるを得なくなり、いわゆる多様性の感覚が身についてくる。

日本にいると島国ということもあってか、他の考え方が入ってきづらい、大陸と比較して。

話を戻そう。
多様性を認めるとは、他の価値観を認めること。そしてそれが正しいというのがブームになっている。

でもこの多様性を認めることを正しいとする考え方は危険な気がする。
なぜなら、多様性を認めない考えを排除することになるからだ。

多様性を認めない考えを批判する

これはなにか考えが確立される時にいつも起こることだが、何かを定義した時点で、その定義に当てはまっているものと、当てはまっていないものに分けられる。

多様性を認めるという考え(スタンス)を打ち出すことによって、そういう考えは認められない人もいることを浮き彫りにするのだ。

そしてもしかすると、多様性を認めている人は、そうでない人を「おかしい」とか言って批判する”かも”しれない。それは自分たちの考えとは違うからだ。

これはなんとも皮肉な話である。自分とは違うことを認める考えなのに、その考えとは真逆な考えを否定してしまうからである。

これは、みんな人それぞれ、考えは違う、という、個人の相対性を認める考えにも当てはまる。
「みんな人それぞれ、考えは違う」ことが絶対的に正しいこととすると、「みんな人それぞれ、考えは違う」ことが絶対的となり、「みんな人それぞれ、考えは違う」という相対主義に反してしまうのです。

私はこの矛盾(パラドックス)が、どうすれば解決できるかをずっと考えてきました。

そもそもなにかの考えを表明する時点で、その考えに合うもの、合わないものというのが生まれてしまいます。何かを決めると、YES or  NOで、分かれてしまうのです。

いっそのこと何も決めない、”無”の境地がいいのではと思いましたが、少なくとも私にはできません。心を無にしようとしても、周りの環境や、今までの常識がどうしても何かを定義つけてしまうのです。

ですが生きることとはそもそもそういうことなのかもしれません。生きている限り考え続けており、なにかしら”決めて”生き続けているのです。それが止めることができるのは、おそらく死んだ時だけでしょう。(あとは寝ている時か)

生きている限り、何かを決め続けなくてはいけません。そして決めた時点で合うもの、合わないもの出てくるでしょう。でもそれでいいのだと思います。今がツラい、仕事が大変だ、色々やらなきゃいけないことがある。そう思っている人間、それが私なのです。今までの人生で培ったものをアウトプットしている存在が自分なのですから、それをそのまま受け止めてみましょう。

もし自分の反対意見の人とあったら、、、私の考えは「放置」です。嫌な気分になっても放置、問題があってもあえて解決しようとしない。

人間はどうしても不快があったら解消しようとします。これは本能です。簡易なものでしたらいいでしょう。お腹が減ったからなにか食べる、眠くなったから眠る。
対人関係の悩みはちょっとやそっとのことで解決しない、ものすごく難しい問題です。意見が違うもの同士でしたら尚更です。ですから頑張って解決しようとしない。嫌なもの同士でしたら自然に離れていきます。解決にドライブをかけることはストレスを増やすことにつながり、おすすめできません。

一番いいのは頭を空っぽにして、自分の本能の赴くままに動くことです。今まで教わった世間の常識や今までの経験から、危ないものには近づかないよう、ブレーキをかけてくれる機能が、人間には備わっています。

それとは別に本能的に「これやりたい!」「あれやりたい!」という気持ちが溢れてきます。これをアクセルと表現すると、色々考えている時は、やりたい気持ちのアクセルと、危険を知らせるブレーキを両方踏んでいる状態になり、車であれば車体自体が軋みます。人間であれば相当のストレスがかかることになります。

ですから、あまり考えずに自分の好きなことをしたらいいと思います。ブレーキを感じたら、自分を守ってくれるお守りが発動したくらいの気持ちで、「ありがとう」と伝えてみてはいかがでしょうか。


まあ色々と話をさせていただきましたが、

・生きている限り、なにかしら自分の考えは持つ。無の境地は私には無理。

・色々な考えを持つ自分を受け入れよう。

・反対派の人が出てきても、変に抵抗せず無視しよう。

・あとはあんまり考えすぎず、直感で生きる。

こんなところでしょうか。

お読みいただき、ありがとうございました。


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