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わからない、ただわからない

映画「ビートニク」をみた。
かつてアメリカであった「ビート」と呼ばれる運動。
“ビートジェネレーション”という言葉だけは、私の耳にも届いていた。
しかしそれは、大きなこれまでの歴史の中のある部分なだけで、はっきりと認識しうるものではなかった。
大きな事件があったわけではないようだ。
日本の歴史の教科書にも載っているわけでもない。
いや載っていたとしても、私の記憶に残っていないということは、日本人の多くが知らないはずだと思っている。

アレン・ギンズバーグ、ジャック・ケルアック、ウィリアム・バロウズ。
特にこの3人の名前は多く出てくる。
彼ら3人がこの「ビート」という流れを世に放った人物たち。

ジャック・ケルアック。
文章を書くのが好きな人物。
それも人に届けるためのものでも、売れるためのものでもない文章。
「自分のために書く文章」が彼の特徴らしい。

アレン・ギンズバーグ。
詩人。彼もまた自分に書く作家であった。
のちに宗教や同性愛、反戦といった運動の多くが彼と共に大きなうねりとなっていく。

ウィリアム・バロウズ。
作家。
異色の作風で、映画化もされた「裸のランチ」がある。
カットアップというやり方で文章を繋げることを発明した。
ドラッグ、同性愛の印象が強い。

それともう一人、ニール・キャサディ。
彼はジャック・ケルアックの著書、「オン・ザ・ロード」のディーン・モリアーティのモデルになったと言われている。
運転を得意としており、友人たちは彼についてこう言っていた。
「彼は運転によって、タイピング(書いている)している作家だ」
彼の行動や生き方が、上に書いた3人ら他の人物に影響を与えていたようだった。

彼らが生み出した、「ビート」のちにビートニクとか、ビートジェネレーションという名前に変わっていく。彼らの生み出した小さい波は、大きな波に変化して世界中に広がっていく。

私はこの映画を見た。
しかし、捉えどころがない。
あまりにも抽象的だったのだ。
言葉の断片を拾い続けてそれを頭で繋ぎ合わせることで、どうにかそれを理解することしかでき得なかった。
こうだ、と決められものじゃない。
かもしれない、留めておくほどにそれは見るタイミングによって変化するようなものだと感じるものだった。
それが、日本で広まらなかった一つ要因のように思う。

もちろんこの「ビート」を語る上で、麻薬、同性愛のようなタブー視された内容が多く出てくることが理由としてあるはずだ。
しかし、今もなお愛されているボブ・ディランの音楽や、ジム・ジャームッシュの映画における作品たちの中には非常に多く、この「ビート」からの影響がある。
その影響の大元を知りたいがために見たところが私にはあった。
そしてそれはなんとなくだが、反映されているようだった。
映画や音楽の中にある、なんらかの謎の「雰囲気」みたいなものによって存在している。

よく映画の中で、「マッチョイズム」という言葉がでてくる。
当時のアメリカでよくいう言葉だったようだ。
男らしさの意味合いで使われている。
「ビート」の彼らはそのアメリカ的な「マッチョイズム」とは敵対していた。
マッチョイズムは男性の、強さ、勇敢さもあるが、強制、男性優位、物理的な力、パワーと言った意味合いも含まれているように思う。
それらとは相反して、力ではなく言葉。
力に対抗できる言葉や、文章があるという事実に心を打たれた。

それらは直線的な言葉ではない。
しかし、人々を巻き込む言葉による力があるものだった。
だが、広がりが大きくなるにつれ、それもまた本来の純粋さが徐々に失われているように感じていく。

この映画はなかなか見たことのない映像が多く入っている。
期待していた以上に多くのわからなさと、新しいわからなさが味わえた。
ほとんどの人が語らない時代には、まだ多くのわからなさが詰まっている。
私がもっと成長してこの映画を再び見た時に、またどんなわからないが待ち受けていることだろうか。

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