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あらゆる悩みの根本原因はすでに2500年前にブッダによって「空」という言葉で説かれていたのだが…


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日本人に最もなじみの深いお経といえば、「般若心経」だろう。

わずか262文字のこの短いお経には、仏教の「さとり」のエッセンスがギュッっと凝縮されている。

「さとり」とは何か?

それを知りたければ、般若心経262文字を読み解いてみればよいのだ。

その冒頭は、このようにはじまる。


照見五蘊皆空 度一切苦厄

私たち人間という存在は、身と心によって成り立っている。

だから私は、自分とは何かを知るために、この身と心のどこに自分が存在しているのかを確かめようとした。

しかし、物質的な肉体も、視覚・聴覚といった感覚作用も、それを受けとる知覚も、あるいは意思や認識といったあらゆる精神作用すべて、どれを詳細にみても「これこそが自分だ」というようなものを見つけることはできなかった。

確固たる自分は、どこにも存在しなかったのだ

驚いたことに、「自分」という実体は、じつはこの世界のどこにも存在しなかったのである。

 引用元『般若心経』を現代語訳するとこうなる


般若心経は弟子のシャーリプトラがブッダに教えをこうという設定なのだが、シャーリプトラは「自分とはなにか?」に悩んでいる。


それに対し、ブッダは言う。

「確固たる自分というものは、どうやら存在しないらしいぞ」

と。

今から2500年前のお話である。


この次につづくのは、あの有名な「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」なのだが、これは「あらゆる物体には実体がない」ということであり、その現象を『空』と呼ぼう、ということである。

この世の物体は『空』でできている。

花も虫も家も猫も人間も。

存在は『空』であるから、いつでも変化が可能だ。どんな形にもなるし、また形を変えられる。


これは科学の話だと理解すれば、なるほどそうですよね、とうなづけるだろう。

たとえば「水」は「H2O」であり、その実体は水素原子と酸素原子の化合物だ。だから水は永遠に水という形なのではない。

今はH2Oだが、いずれ水素原子が窒素とむすびついてNH3となればアンモニアだし、酸素原子がひとつ増えてH2O2となれば過酸化水素となる。いわゆる漂白剤だ。


『空』

あらゆるものに形をかえる、物体の真実。

確固たるものは何一つとしてなく、すべては変わり続けるという法則。

現在人類が発見している原子は118種類。

目の前のありとあらゆるものが、もとをただせばたった118種類の原子の組み合わせによるものだということ。


では「命」は『空』であり、生きることは空虚なのか?

といえば、ブッダはそれも否定する。

世界の在りようをしっかりと見つめて、真実を見抜いていこうとする姿勢だけは失ってはいけない。

と。


たしかにあらゆる存在は変化しつづけるという点において「無常」だが、その「無常」こそが命そのものであり、生のダイナミズムなのだ。

しかし、人間のものの見方はしばしばこの逆をいく。

命を「止まったもの」として捉え、認識し、考えようとする。

そこに「苦しみ」が生まれると、ブッダは説いた。

この「苦しみ」とは、「無常」を受け入れないことで生じる苦しみだ。

つまり、「自分」を確固たる実体をともなう存在としてみようとしてしまうこと。

また、他者や物に対してもそうだ。

『空』という真実を受け入れない、独りよがりなものの見方が「苦しみ」の根元であると説いている。

こうしたブッダの視点は、実に科学的だ。

そして、人の苦しみの根元は何千年も昔からたいして変わっていないのだあと思う。


人間が一生涯に味わう苦しみを「生病老死」という。

人は生まれた瞬間から、みな死へと近づいていく。

体は老いることはあっても若返ることはない。

病気や怪我することもある。

「自分」という実体にしがみつけばしがみつくほど、それらは恐ろしくてたまらない。

しかし最後は、みな「死」によって肉体を失う。同時に「わたし」という認識も。

強制的な『空』の体験だ。

つまり「わたし」という概念のデリートである。


ブッダは「老」や「病」もまた概念でしかなく、「空」が形をかえたものだという。

なんらかの概念が「ある」と認識することに、すでに誤りがあるのであって、その概念を作り出している頭の動きを止めることを修行とした。


たとえば「幸」と「不幸」も概念である。

幸せを感じられるのは、そうじゃない瞬間があるからで、不幸だと感じるのはもっと良い幸せがあると思うからである。

「幸」は「幸」だけでは存在せず、また逆もしかり。

この二元論的なものの見方が、人間の脳のデフォルト設定になっている。

しかし、「幸」と「不幸」というのは本来固定されたものではなく、お互いに回転しあっている関係性であり、変わり続ける『空』なのだ。


そのことに気づくことを「悟り」といった。


「悟り」には、「差をとる」=「サトリ」というニュアンスも含まれる。

つまり「幸」と「不幸」の差をとることで、二元論的なものの見方から自由になるのだ。

これは「どっちもどっち」というような諦観ではなく、ただものごとの真実を見るということの稽古である。

まやかしの幸福や、過ぎさった不幸に心が囚われてしまわないように。


そういう意味で、仏教的な悟りとは生き方のアップデートのスタートラインでしかないのだろう。

その時、人間の社会の作られ方が変わる。

根本的に「確固たるわたし」という存在を念頭においた社会の構成ではなくなる。

「個人主義」や、そこからはじまる人権という概念や、司法や律法の仕組みも見直されるだろう。

あらゆる二元論的なものの見方から離れた人間による共同体のデザインが模索されることとなる。


そして、そうした未来社会を遠い昔にすでに実現していたのが、スペースピープル(SP)という存在だ。


エイリアン情報の開示とは、彼らの文明構造の開示であり、それはあたらしい社会や都市のデザイン、共同体のあり方、教育や経済のあり方の情報開示でもある。


地球への違和感。

目の前の社会への違和感。

人間関係への違和感。


断言する。


宇宙に目を向けることで、それらは解決へ向かう。


地球の内側だけでそれらを解決しようとすることが最大の盲点であり、誰もがスタートの時点で視野を狭められてしまっているのだ。


地球の問題の大半は、宇宙の誰かが解決ずみ。


そんなことが、多分にしてあるのだ。

僕らはこの宇宙で、ひとりぼっちなんかじゃないのだから。


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