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「犯罪学の父」と呼ばれた男

「犯罪学の父」と賞賛され、発表した論文には必ず編集者によって「偉大なるイタリアの学者」との謝辞が添えられていた-チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso、1835-1909)。生涯に数百本もの論文を生産し、1876年に刊行した『犯罪人論』(国立国会図書館デジタルコレクション)』は、世界中でもっとも多くの人びとに読まれた犯罪学のベストセラーとなった。

彼が生涯にわたって、おびただしい肉片、無数の骨片、多くの頭蓋骨、そしてそこから取り出した「犯罪者」の脳を整理してたどり着いた驚くべき結論は、「生来性犯罪人説」と名付けられた。

犯罪者、特に凶悪犯人の多くは、隔世遺伝によって血を好む性質をもって生まれて来る。彼らは、自然淘汰からこぼれた退化した人間であり、犯罪者となるべく運命づけられた者たちだ。その特徴は外面的には頭蓋や顔貌をはじめとした多くの身体的欠陥として現れ、内面的には肉体的苦痛に対する鈍磨、情緒的な反応の欠如などの精神的な欠陥として現れる。彼らにとって犯罪は本能による仕業であるから、他に適法行為を選択する余地はなく、道義的な非難という意味での処罰は間違っている。彼らに真に必要なのは、処罰ではなく、社会防衛のための治療なのだ(治療不可能な凶悪犯人は、排外、すなわち死刑しかない)。

同じ劣悪な環境にあっても、犯罪を犯す者はごく一部である。ならば、環境よりも犯罪者個人に犯罪の原因があるにちがいない。この世に天才が出現するように、犯罪者も必然的に生まれてくる。ロンブローゾは、このあまりにも素人的すぎる仮説のとりこになった。そして、抽象的で神秘的な「正義」の観念にしがみついていた当時の古典的刑法理論に対して、実証主義という鎧をまとって果敢な挑戦を挑んだのであった。

この奇妙な学説に先導されて、多くの犯罪学者が犯罪者の個体的な特徴を血まなこになって探し求めた。その結果、「生来性殺人犯人」「生来性強盗犯人」はもとより、「生来性窃盗犯人」「生来性詐欺師」、挙句の果てには「生来性売春婦」「生来性浮浪者」など、数多くの「驚くべき個体的犯罪因子」が次から次へと発見(!)されていった。

今から見ればこの馬鹿げた騒動は、彼の死によってようやく沈静する。ただ、刑罰の対象を〈犯罪行為〉から〈犯罪者〉へと移行させた彼のテーゼそれじたいは、19世紀実証主義の流れに乗って、その後の刑法学のみならず、犯罪生物学、犯罪精神医学、犯罪心理学、法医学、犯罪捜査学、監獄学など、およそ犯罪をテーマとするすべての学問に豊かな深みを与えたのであった。(了)

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