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二度と会わない恩人に恩返しできない代わりに、困っている大事な存在を助ける。自己満な行動だけど

恩返しをしたいけどできない、もう会うことのない相手がいる。私が困ったときに何度も助けてくれた人。本人に返せないぶん、別の人に返していきたい。

誰かを思う優しい気持ちや温かい心、それに伴う言動はまわりまわっていく。そう信じている。

4年ほど前、足の一部を痛めて、歩くのが困難になったときがあった。「どんくさい」としか言えないけれど、自室でなぜか滑って転倒したのが原因で、たった一瞬のことなのに、昼過ぎくらいには足首が大きく腫れ上がって熱を持ち、違和感のある痛みに襲われた。

仕事の合間、病院に駆け込んで、捻挫だと診断されるも、夜は外せない仕事があった。なんとかやり過ごし、滅多に使わないタクシーを使い、夜遅く帰宅してから、室内を這いつくばりながら移動した。

床に腰を落としたまま、ぼんやりしていた。今朝まで何の不自由もなく動けていた身体が、いかにありがたい状態だったかを感じ、それを当たり前だと思っていた自分を恥ずかしく思い、同時に現実的なことが頭をよぎった。

「買い物とか、どうしよう」「部屋の中を動くのもキツい。でも、それはやるしかない」

誰かに助けてほしい。生活を手伝ってほしい。でも、誰に助けを求めればいいのか。

友人たちの顔が思い浮かんだけれど、頼れる相手じゃないなと打ち消した。なんだか申し訳ない。うちまで遠いし。こういうことを相談する相手ではないし。助けを求めない理由をひとつずつあげていった。

***

しばらく考えた後、ある人にメッセージを送っていた。

「足を痛めてしまいました。動くのが辛いです。お忙しい中、頼って申し訳ないのですが、明日お仕事帰りに食べ物を買ってきてくださいませんか」

こんなテキストだったと思う。その人はすぐに返事をくれて、忙しいにもかかわらず、そしておうちと私の家はかなり離れているのに、仕事帰りにいろいろなものを買い込んで来てくれた。

恐縮しきって、ありがとうございますと何度もお礼を言い、お忙しいのにすまないです、遠いのに申し訳ありませんと頭を下げる。私より遥かに多忙な人だ。

額にかいた汗が離れていても見えるくらい、食料品や日用品でパンパンになった重たい買い物袋をふたつも持ち運びながら、その人は少しぶっきらぼうな感じで、こんなことを言ったと思う。

「そんなの(申し訳ないとか思わなくて)いいんだよ。僕を頼ればいいよ」

この人には、そこから遡ること数年前、別のことでも救ってもらっていた。この人がいなかったら、私は潰れていたかもしれない。

***

ただ、ある出来事がきっかけで、本人と会うことはなくなった。私も、本人もお互いに再会したいとは願っていない。

でも、嫌いという感情はなくて、心身が元気であってほしいなと思う。時々思い出して、身体は大丈夫かな、呼吸器周り改善されたかな、健康であってほしいなと願う。

というのは、その人は私の恩人であり、忘れることはない人のひとりであることに変わりはないから。

***

週末から毎日、ある場所へ通っている。平日は1時間くらい、休日は2〜3時間、そこへ滞在。大事な人が困っているため、その支援をしている。

その人は私によく「ごめん」「ありがとう」と言う。そんなとき、私は恩人が私に放った言葉にかなり近いものを、その人に伝えているのに気づく。

「そんなの(ごめんとか思わなくて)いいよ。私を頼ればいいよ」
「気にすんな。近いんだし。全然負担になってないから」

その人はとても気ぃ遣いな性格だから、私がその人をサポートする「背景」を説明した。

大切な恩人がいること。でも、事情があって恩人には直接的に恩返しできないこと。だから、身近にいる大事な人が困っていたら、恩人を助ける代わりに、目の前の困っている人に対して、自分ができるだけのことをしたいのだ、と。遠慮はいらないし、ごめんとか思う必要もない。ただ私がやりたくてやっているだけのことで、サポートの必要がなくなったらやめるから、あなたのタイミングでその旨伝えてほしい。

そんなふうに。

その人は私にひとしきり感謝した後、「園子さんが同じ状況になったら、この恩は必ず返すから」と言った。

「ありがとう。でも、私はこういう状況にはならない可能性が高いと思う。だから私の代わりに、困った人がいたら助けてあげて。私が言わなくても、あなたはきっとそうすると思うけど」

私に直接返してくれなくていい。そうしてほしいとも思っていない。見返りを求めて支援しているわけではないから。ただ、恩人への感謝を別の人に向けて、昇華しているだけなのだ。自己満足の領域、と言ってもいい。

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ある夜、その人から「いつもありがとう」と連絡が来た。咄嗟に「存在にありがとう」と返事をした。

サポートする過程で、その人の健康状態が損なわれて、最悪な事態になる可能性もあるのでは、と気が気でなかった。だから、今その人の心身が無事この世にあることがありがたいと、心底思ったのだ。

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私の恩人も当時、私のことを同じように捉えていてくれたのだと、今となっては思う。

「自分が生きる圏内に、存在してくれてありがとう」という感覚。大事な存在が困っている。だから、少しでも力になりたいと思って、助けようとする。とてもシンプルな行動原理。

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恩人は健やかに、幸せに生きているだろうか。そうあってほしい。

誰かを思う優しい気持ちや温かい心、それに伴う言動はまわりまわっているから、恩人も身近なところから優しさや温かさを受け取っていてほしい。そう祈っている。

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