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世間話(おしゃべり)の無気味さとは——ハイデッガー『存在と時間』より

われわれがここで記したありさまで閉鎖する世間話は、根のぬけた現存在了解のありかたである。けれども、それはなにか客体的なものの上に現われる客体的な状態ではなく、実存論的に根がぬけているということは、それ自身がたえまのない根底喪失のありさまで存在しているということである。(中略)
けれども、平均的な既成的解意の当然さや安心感のなかには、それぞれの現存在が宙に浮かびながら次第に深い根源喪失へ押し流されていくのに、その当然さや安心感に守られている現存在自身にはこの浮動の無気味さが気づかれずに蔽われている、ということが含まれているのである。

マルティン・ハイデッガー『存在と時間(上)』細谷貞雄訳, 筑摩書房, 1994年. p.363.(太字強調は筆者による)

ハイデッガーの主著『存在と時間』からの抜粋。マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger, 1889 - 1976)は、ドイツの哲学者。現象学のフッサールの他、ライプニッツ、カント、ヘーゲルなどのドイツ観念論やキェルケゴールやニーチェらの実存主義に強い影響を受け、アリストテレスやヘラクレイトスなどの古代ギリシア哲学の解釈などを通じて独自の存在論哲学を展開した。1927年の主著『存在と時間』で存在論的解釈学により伝統的な形而上学の解体を試み、「存在の問い」を新しく打ち立てる事にその努力が向けられた。20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。

引用した箇所は、「世間話(空論)」についての存在論的分析についての文章。ドイツ語で「Gerede(世間話)」とは「おしゃべり」程度の意味だが、ハイデッガーはこの言葉を哲学的な術語として使っている。その意味は、人びとが日常の中で語る言葉として、「平均的な了解可能性」が含まれるものとして語られ、聞かれるものを指している。この「平均的な了解」というものが、ハイデッガーにとっては危険なものとして映る。なぜなら、そのような言葉(世間話)は、私を、私という存在の根っこの部分、根源的な部分から引き離してしまうものだからである。

私たちは世間話(おしゃべり)をしているとき、存在者(その人)を了解しているのではなく、話された話だけに耳を貸しているのだとハイデッガーは述べる。しかしながら、本来的な語りというものは、そのような「平均的な了解可能性」の言葉にのっかることなく、存在者が発する根源的な水準からのものであり、聞く人は話される内容ではなく、その語りを発している存在者に対して根源的に了解しようとする態度をとる必要がある。

そして、ハイデッガーは、そのような「平均的な了解可能性」だけがやりとりされる世間話において、現存在(私)は根源的に了解されることなく、宙ぶらりんになっており、根っこが抜けたような「浮動」状態にあるという。しかしながら、もっと危険なことに、人びとは自分がそのような「浮動」状態にあるということに気づいていない。なぜなら、平均的な了解のうちに互いに安心してやりとりされるおしゃべりのうちに、その事実が覆い隠されているからである。その様態を、ハイデッガーは「この浮動の無気味さ」と表現するのである。

私は医師であるが、患者の話をきくときに、その症状なり困りごとなりの語りを「平均的な了解可能性」のもとで単にきくのであれば、それはハイデッガー的に言う「世間話(Gerede)」となってしまうだろう。私はそのとき、患者という存在者を了解しようとしているのではなく、話された話を単にきいているにすぎない。患者の語りを、単に診断のための情報としてきく行為、つまり「平均的な了解可能性」のもとにきくだけの行為は早晩、人工知能がやってくれるであろう。人間にしか出来ないこと、それは存在者である患者そのものを了解しようとして話をきく行為である。




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