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病いと「顔」の関係——クレール・マランの『病い、内なる破局』を読む

病いは、顔を喰い尽くすことによって、その人の前に名乗り出る。あたかも、その人はもう自分の乗り物でしかないというように。(中略)病む人が鏡のなかに見る顔は、他人の顔のように見える。病いは、この不快な違和感、主体の剥脱と他有化の感覚を呼び起こす。つまり、自分に固有のものであって、内密なものであると同時に人々にさしだされていたもの、すなわち自分の顔が奪われているのである。

クレール・マラン『病い、内なる破局』鈴木智行訳, 法政大学出版局, 2021. p.68.

クレール・マラン(Claire Marin)は、1974年パリ生まれの哲学者。2003年にパリ第四大学で哲学博士号を取得。自らが多発性の関節炎をともなう自己免疫疾患に苦しめられ、厳しい治療生活を送ってきた患者でもあり、その経験を起点として、「病い」と「医療」に関する哲学的な省察を行なっている。著書に『熱のない人間——治癒せざるものの治療のために』『私の外で——自己免疫疾患を生きる』などがある。

本書は2014年に出版されたマランの著書の和訳であり、病者の「自分自身が失われてしまった」という感覚、この「同一性の傷」を治療することは可能かとい哲学的な省察をめぐるものである。

マランは「病いは、文字通り破局(カタストロフ)であり、内的世界の、病む人の同一性の感覚の、その存在の感覚それ自体の激しい動揺である。それは断絶であり、存在の持続性の損傷であり、同時に、世界と自己の表象の暴力的な撹乱、混乱であり、基準点の喪失でもある」(上掲書, p2-3)と述べる。つまり、病いとは一時的な逸脱状態なのではなく、本質的に、自分という存在が全く「別のもの」になってしまうという実存的水準での経験なのである。

第4章「他人の顔」では、その自分の存在・実存あるいは同一性を象徴する「顔」について、病いとの関係が考察される。「病いは病理学的な境界線を超えて、その人の全体に浸潤し、同一性を象徴する中心地を占拠する」とマランは述べる。つまり、自己同一性の中心地である「顔」が病いによって占拠され、顔は「他人の顔」になってしまうのだ。これは「主体の剥脱」あるいは「他有化の感覚」なのであり、すなわち「自分の顔が奪われている」状態である。

顔は自己同一性に関するばかりではなく、他者との関係においても重要なものである。したがって、「顔が奪われる」という経験は他者との関係にも影響を及ぼさざるをえない。「顔は再認の媒体であり、他者に対する関係の基盤であり、したがって、その変形、あるいはそのちょっとした変質は、主体の同一性の感覚を危ういものにする。顔が傷つくということは、もっとずっと深くまで傷つくということ」(上掲書, p.70)なのである。

本書の最後の章では、それでは一体、この病いを「治療する」とはどういうことなのかが考察される。治療あるいはケアの本質とは、病理学的水準を超えて、「同一性」の水準、実存的水準に関わるものであることが述べられる。それは「しばしば見えない治療」であり、「その同一性を確認するまなざし、自分の体とその境界、文字通りの意味での自己規定に意識を向けることを可能にするような接触」(上掲書, p.102-103)なのであると。


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