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存在倫理と善悪の彼岸——合田正人氏の『吉本隆明と柄谷行人』を読む

「……社会倫理でもいいし、個人倫理でもいいし、国家的なものの倫理でも、何でもいいんですけれども、そういうもののほかに、人間が存在すること自体が倫理を喚起するものなんだよ、という意味合いの倫理、「存在倫理」という言葉を使うとすれば、そういうのがまた全然別にあると考えます……」(「存在倫理について」―『群像』2002年1月号, 208頁)
吉本自身によってこの倫理は「存在倫理」と名づけられており、「存在倫理」は善悪の二元論を突き崩すものとみなされている。「善悪の彼岸」なのだ。そして「存在倫理」は柄谷とも決して無縁ではなかった。最初期の論考「意識と自然」(1969年)で、柄谷は夏目漱石を論じながら、「倫理的な位相と存在論的な位相は順接するのではなく逆接するのだ」(『畏怖する人間』36頁)と記しているからだ。

合田正人『吉本隆明と柄谷行人』PHP研究所, 2011年. p.23-24.(太字強調は筆者による)

レヴィナスやサルトルなどフランス哲学・現代思想の研究者である合田正人(1957 -)氏が、吉本隆明と柄谷行人について書いたという興味深い本『吉本隆明と柄谷行人』(PHP新書, 2011年)からの引用である。吉本隆明と柄谷行人は戦後思想界を代表する二人であるが、二人は互いに批判しあい、相剋しあいながらも、彼らの「発想力、構築力、破壊力、問題構成力、持続的展望力」はいずれも現代において強力な影響力を持っていると合田は論じる。

紹介するまでもないが、吉本隆明(1924 - 2012)は、文学からサブカルチャー、政治、社会、宗教(親鸞や新約聖書)など広範な領域を対象に評論・思想活動を行った。第二次大戦後、詩人として出発し、『共同幻想論』(1968年)、『ハイ・イメージ論』(1989年)など多数の著書がある。一方、柄谷行人(1941 -)は、日本の哲学者、文学者、文芸批評家である。夏目漱石研究で論壇に登場し、『意味という病』(1975年)、『坂口安吾と中上健次』(1996年)、『世界史の構造』(2015年)など多数の著書がある。

本書『吉本隆明と柄谷行人』では、「個体とは何か」「意味とは何か」「システム(関係性、集合)とは何か」「倫理とは何か」という四つの問いを設定し、吉本と柄谷の思想を論じていく。特に興味深かったのは「倫理とは何か」の部分である。

引用したのは序論であるが、そこですでに「倫理」に対する吉本と柄谷の向き合い方が紹介されている。吉本は「我々は存在そのものが既に倫理的な実態であることを知る」(『初期ノート』光文社文庫, 137頁)と書いており、この「存在倫理」の考え方が吉本の思索を貫く通奏低音になっていた。柄谷も「倫理的な位相と存在論的な位相は逆接する」という表現で、「善悪の彼岸」、すなわち善悪の二元論を超越するものについて考えていた、と合田氏は論じる。終章「倫理とは何か——愛も正義もないところで」において、合田氏は、サルトルやレヴィナスの他者論、モースの贈与論、ロールズの正義論などを補助線に、吉本と柄谷の「倫理」との向き合い方を解き明かしていく。

しかし、本論では述べられない第三の思想家が想定されていたことを序論で合田氏は明かす。鶴見俊輔である。

だが、少なくとも私は、個人幻想、対幻想、共同幻想という吉本の図式、共同幻想論に対する柄谷の交通空間(と単独者)論という対立を切り崩していくヒントが、「私」や「家族」、「国家」や「民族」についての鶴見の発言のなかにあると確信している。

(同書、p.30)

鶴見俊輔(1922 - 2015)は、日本の哲学者・評論家・政治運動家であり、米国ハーバード大学で哲学を学んだのち、リベラルな立場の批評で戦後の論壇を牽引した。内と外、自と他、善と悪など二元論を超えていくための考え方、二分法には収まらないものとして合田氏は鶴見俊輔の考え方に惹かれている。鶴見俊輔は、みずからの留学体験ならびに『思想の科学』のなかで「留学生」たる自分の位置を捉えていた。それは、「漁師が思いがけず漂流してしまって異国に着き、強制的に送還されるといった経験」、あるいは「留学ではなくて亡命」にまなざしを向ける姿勢である、と合田氏は指摘する。

とにかく本書の思想的射程は広大である。個体、意味、システム、倫理という四つの哲学的問題群からみても、それが壮大なテーマであるかに見える。しかし、その本質は「日本あるいは日本人とは何か」という中心的な問いを巡るものであるようにも見える。そして、近年「分カリ易サ」のイデオロギー、新たな「ニッポン・イデオロギー」(戸坂潤)が台頭し、原理的問題群を棚上げにしようとする者たちが跋扈していることに合田氏は警鐘を鳴らす。そして以下のように述べるのである。

あたかもそれが「所与」であるかのように「日本」「日本人」を捉え、それを主語ないし述語として、あるいは目的補語として平然と用いるのはやめてもらいたい。そしてこのとき、吉本や柄谷の著述はきっと、(半ば意識的に、半ば無意識的に)巧妙に演出された思想的弛緩の、だからこそ強力な捕獲装置を見抜くための一種の試験紙として機能するのではないだろうか。

(同書、p.17)


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