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「生きているから生きているのだ」——唯識論から導かれる同義反復的な生の肯定

あるいは、「あなたはなぜ生きているのですか」と聞かれて、「生きているから生きているのだ」と答えるのもそうです。このような答え方は、ただ言い逃れのためにいっても意味がありません。そんな気持ちでいったら、その言葉には力が感じられません。しかし、人によっては、その同義反復的な言い方が、相手に強い力を与えることがあります。その人が、そのようにいえる事柄を深く強く心身あげて体得している場合です。(中略)
「自分」というものを設定し、その「自分」が切り取る部分のみを認識して、その他の広大な存在を忘却しているのが、私たちのふつうの生き方です。しかし、その「自分」をどんどん小さく削っていくのです。そうすると、それに反比例して、認識する「その他の存在」がだんだんと大きく膨れあがってきます。そうやっていって、その「自分」がまったく消え去ってしまったときに、自分が介入しない存在、自分という思いに色づけされない、ありのままの存在がこの一人一宇宙の中に顕現してくるかもしれません。

横山紘一『阿頼耶識の発見:よくわかる唯識入門』幻冬舎新書, 2011. p.176-177.

著者の横山紘一(1940 - 2023)氏は、日本の仏教学者。東京大学大学院印度哲学科博士課程修了。立教大学名誉教授。大乗仏教・第二期の「唯識」思想の研究が専門。著書に『唯識とは何か』(春秋社)、『唯識という生き方』(大法輪閣)、『唯識 仏教辞典』(春秋社)などがある。

大乗仏教の重要な思想の一つである「唯識(ゆいしき)」の考え方を、わかりやすく説明している良書である。唯識思想は、7世紀の中国僧である玄奘三蔵が、17年間の長きにわたる苦労の末、インドから中国にもたらした思想。奈良時代に日本に伝来し、以来現代に至るまで、仏教の根本思想として脈々と学ばれ続けている。この唯識思想は、21世紀の現在、再び脚光を浴びているという。それは、私たちの物質主義の文明がある意味ピークを迎えた今、私たちの「こころ」をどう捉えるかが最重要な主題の一つとなったからであろう。

唯識思想は、簡単に言うと、「自分など存在しない、ただ識、すなわち心しか存在せず、心の外には物は存在しない」という、ある意味「非常識」な見解を大前提とする考えである。この唯識では、「心」を表層から深層まで八つに分けたときの、一番深いところにある根本の心を「阿頼耶識(あらやしき)」と呼ぶ。ここが、心の動きや感情、表情、生きる力など、人生のすべてのよりどころとなる。この「阿頼耶識」の発見は人類の大発見であり、数学でいえば「ゼロ」の発見に匹敵するという(いずれもインドにおいて発見された)。

フロイトやユングなどの精神分析学では、人の心には「無意識」があると説くが、その無意識と阿頼耶識は、まったく別物であると、横山氏は述べる。精神分析学における「無意識」という潜在意識は、神経症などの患者の言動を通して「無意識はあるだろう」と臨床的に推測した結果として唱えられたものだが、阿頼耶識は、ヨーガを実践する行者が、自らの心の奥底に沈潜して発見したものであるからだ。

仏教哲学・唯識思想のもう一つの素晴らしい点は、阿頼耶識を発見したことで、仏教が、心との正しい付き合い方を提示できるようになったことだと横山氏は述べる。誰でも、生きていくことは苦しい。しかし、阿頼耶識や末那識(自我に執着する心)に気づき、心と正しく付き合うと、怒りや悲しみや絶望といった感情が自然と消えていき、生きる喜びに満たされるという。つまり、唯識は、心の構造を根本的に解明し、心を大変革させる方法論を提示したわけだ。

唯識思想では、自分は存在せず、ただ「識」があるのみだと考える。「識」とは、識る、すなわち認識するという働きをするものだが、唯識では、その「識」も最終的には無くなってしまうと考える。「識全体が無くなる」とは、何もかもが虚無になるということではなく、各人が「本来のありよう」、すなわち「あるがままにある」状態になる、つまりは「空」に至るということを意味する。唯識における最終的な問い、「いかに生きるか」という問いに対しては、「唯だ生きる」という答えが返ってくるという。このことを、深く強く心身をあげて体得した人は「生きているから生きているのだ」という同義反復的な生の肯定の状態に至るのである。



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