すうひゃん。soohyang

東京から宮崎に移住。 絵描き、在日コリアン。 古民家をリノベーションして暮らしてい…

すうひゃん。soohyang

東京から宮崎に移住。 絵描き、在日コリアン。 古民家をリノベーションして暮らしています。

最近の記事

砂鉄の子供〜生きづらさを抱えた人たち〜 

長くバイトしいている作業所には生きづらさを抱えた皆さんが通って来て 毎日畑で作物を作ったり選別をしたりしている。 彼らの持っている生きづらさは 自閉傾向や身体障害、精神など様々なんだけれど、 ここに来ている人たちは 素直に自分の感情を表現して 言われたことを守り 一所懸命に仕事をする。 そんな彼らに 作業所のボスはいつも 喧嘩をしてはいけません、悪口を言ってはいけません、 おしゃべりをしすぎてはいけません、寒い時は上着をを着ましょう、 手洗いうがいをし

    • 地域と国際交流

      小さな自治体にとって、国際交流とはなんなんだろうか。 この答えは私の中で明確な答えがある。少し長いけど読んでください。 私が宮崎県綾町へ移住したのは2011年6月の年、勢いで仕事もなくただ移住した。 移住後すぐに役場から連絡があり、韓国の鎮安郡という町と交流をするから是非国際交流員として働いて欲しいと言われた。私は在日の民族学校へ行っていたけど、例えるならば言語は”コリアンジャパニーズ”であった。当時の役場の職員は”あなた以外韓国語はわからないから多少間違っていても誰も気

      • 地域猫のミャーちゃんのはなし

        地域猫のミャーちゃんが うちへ居着いてから一年。 当初は何故かうちの周りで鳴いている猫がいて でもうちは大ちゃん、小麦、クロ、という 3匹の犬猫がいたので 到底飼える訳も無く、、 いつかいなくなるだろうと どこかの飼い猫かもしれないしと 餌もあげずにいた。 1ヶ月すぎたあたりから 何だか痩せているし、やっぱりノラかなとか 捨てられたのかなとか 気になりだしたけど、 やっぱり飼うことも出来ず かと言ってどこかへ置いてくることもできず。。 そんなこんなで悩んでいたら 12月

        • お風呂シリーズの事

          水の記憶 水に入るときの子供達の姿は 何の上書きもされていない 美しい姿だって思う。 空(くう)をただ眺めて 味わい感じてる。 何を 見てるんだろうな。 原初の記憶、 体はきっと覚えてる。 上書きされていない彼らは その記憶と仲が良い。 水は過去未来を行き交う タイムマシーンみたいだな。 水と子供の親和性。 絵に時間をとじこめたくて 何度も塗っては剥がし 流しては塗り。 コスパ最悪のやり方で 対話しながら 命を吹き込んでる。 最初に描き始めたのは 移住して

        砂鉄の子供〜生きづらさを抱えた人たち〜 

          宮崎空港個展半径2キロのポートレイトについて

          井戸を掘るように狭くても深く、世界を見つめたい。 グローバル化していく世界は魅力的だけど、同時に人一人の存在は軽んじられ危うくなってゆくような気がします。 どんな広い世界にいても始まりは一人の人であり、全ての人は性別も国籍も関係なく子供だった事。子供は何かがたくさんくっついていく前の始まりの存在なので、目に見える形の原初の存在であると考えています。そこに立ち返ることが今本当は必要なのではないでしょうか。 描く多くの対象は、私が生活する小さな生活圏に生きる中で、実際に出会

          宮崎空港個展半径2キロのポートレイトについて

          彼がこの世を去ってから考えたこと⑤〜余命宣告1〜

          あれから3年が経とうとしている、今月9月は彼の死んでしまった月だ。 何度かいろんな思いを書き記しておきたくて文章を書こうと思ったけど、 感動ポルノとかそうゆう悪意のある言葉が頭をよぎって、 そういった現代社会の新しい批判みたいなものに消費されたりしていく事が嫌で 何となく書く事は止まった。 だけど9月の月を見てここ数日、無性に込み上げてくるものがあり 残したいことを書くことにした。 これも愚かな表現者の嵯峨としての行いなのかもしれないと思う。 ーーーーーーーー

          彼がこの世を去ってから考えたこと⑤〜余命宣告1〜

          作品について 子供というタイムマシーン

          私が幼い頃に育った山というのは町田市と横浜市を挟む境の山の尾根で、その山は田んぼやみんなで作った秘密基地もあったり、虫取りやかくれんぼ、山菜採りなんかができる場所だった。私はその山を望むように並んだ、団地地帯に住んでいた。一番近い駅からバスで40分ほど離れていてとても不便な場所だった。 まだ開発されていないぽつんとした真っ暗な林は、夕方になれば街灯もまばらで真っ暗な山が広がる、何だか薄気味悪い空気に包まれた。幼い頃はまるで泥棒や山んばや人さらい、巨人などの幻想にかられ、それ

          作品について 子供というタイムマシーン

          すうひゃん。 という名前

          去年末くらいから名前について考えさせられる出来事があった。 この名前はよく何でこんな名前をつけたのか と聞かれることも多く、その度に ”私は韓国籍なのでこれは本名で下の名前だけとって 「すうひゃん。」と名乗っています”とお話ししてきた。 在日コリアンとして生まれた私は 植民地時代に与えられた日本の苗字と本来の韓国の苗字があった。 読み方は韓国読みと日本読みの2種類があり、まだ20代の差別の厳しかった時代は、韓国名を名乗れずに日本名を名乗り生きている在日もたくさん

          すうひゃん。 という名前

          彼がこの世を去ってから考えたこと④2021年9月 kyushu New Art 旦那さんと参加へ

          小田瀧と2人展をさせていただく事になった。 経緯はまた次の記事で書こうと思う。 搬入日が彼の命日です、もうすぐ2年 お話をいただいた時、搬入日が彼の命日であることから、これは彼が歓迎している企画だと 直感的に思い、お寺へ行かずに展示をしに行こうと思った。それが私たちらしい3回忌のあり方であると。 以下お知らせを兼ねて彼の作品について書きました。 Kyushu New Art 9.16 Thu. 20 Mon. 2021 @博多阪急8F 催場 九州を拠点ゆかりとし

          彼がこの世を去ってから考えたこと④2021年9月 kyushu New Art 旦那さんと参加へ

          彼がこの世を去ってから考えたこと③

          2011年に旦那さんの実家の宮崎へ来た。震災があって後悔しない生き方を考えたから。それから8年後の2019年に旦那さんが死んだ。 東京にいた頃は住まいの3DKの小さなアパート半分くらいが彼の制作スペースだった。長男が生まれたばかりだったけれど、彼は仕事には行かず作品を作っていた。 私は朝起きて子供を抱いて、頑張ってねと家を出た。制作の間は家にいないように1日時間をつぶし帰ってからどうだった?と1日の仕事を話すのが楽しかった。 その頃私はイラストレーションの仕事と予備校講

          彼がこの世を去ってから考えたこと③

          彼がこの世を去ってから考えたこと②

          最初のnoteを投稿してから一年が過ぎてしまった。あれからあった事その前の出来事など少しずつ書き記していこうと思う。 彼が死んでしまってから私はすぐに東京の実家に帰ろうと思っていた。 身寄りのない場所で一人で子育てし、この地に留まるのは難しいと考えていた。。 けれどすぐには動けない理由があった。 この町に彼が制作に使っていたアトリエがあること、 都会と比較しても、売れない作家が持つには贅沢すぎるほど広いそのアトリエには、100号を超える大きな作品や音楽機材、その他た

          彼がこの世を去ってから考えたこと②

          彼がこの世を去ってから考えたこと①

          旦那さんが今年の2月に突然余命を宣告されて、9月に死んでしまった。 もともと骨髄異形成症候群のキャリアではあったけれど 年に数回 人よりも少し長い熱を出すくらいで、いつもハツラツとしていた。 むしろ弱音を吐いたりするのは聞いたことがなく "大丈夫" "心配無い"が口癖の人だった。 私よりも13歳年上で50歳前になってできた息子がいたが、 仕事もソコソコに家庭の煩わしいあれこれや世間の常識にも目もくれない、 どんな時にも作品制作に情熱を傾ける、パンクな夫だった。

          彼がこの世を去ってから考えたこと①