綺羅星に手を伸ばせ
「そうだ、テオドアさんの事なんですけど」
思いもよらない言葉が角に響き、私は焼菓子に伸ばした指を止めた。視線を対面に座る少女に向け直す。私の雇い主である少女—ソフィアはティーカップ片手に柔和に微笑んでいた。
「…急ですね」
「約束したじゃないですかイズミさん。ちゃんと答えるって」
「そうでしたね」
私は改めて焼菓子をつまみ、ひと口かじる。ふわりとした食感と上品な甘さが広がる。美味しい。
テオドア。常に明るく前向きな海の男。たまに帰ってきたと思えばソフィアに言い寄り、その度に蹴飛ばされ、それでもめげない姿がありありと浮かぶ、あの男だ。
ソフィアが北洋へ旅立つ数日前、私たちは他愛もない恋愛談義をした覚えがある。他ならぬテオドアの乱入でうやむやになったそれの続きだ。
私は焼菓子の残りを頬張り、飲み込む。この焼菓子は先日呑んだ友人の雇い主が、どういうわけか私とソフィアにと持ってきたらしい。あの夜の事は正直何も覚えてないのだが、呑んだ相手側から贈られてきたということは、少なくとも私は何も過ちを犯していないはずだ。よかった〜ホッ。
…私がそんなどうでもいいことを考えている間に、ソフィアは紅茶を一口飲み、続けた。
「…でも彼には内緒ですよ」
「えぇ」
「…彼の事」
彼女は天井を、彼方を見上げた。
「好きですよ。わたし」
「まだわたしが駆け出しの頃から、まるで変わってないんです。彼は。だから、この人は、何があっても味方でいてくれるんだなって、そう思えてきて、あぁ、嬉しいなって、好きなんだなって、気付きました」
「…イズミさん、イズミさん?」
呼びかけられて、ようやく気がついた。きっと、間の抜けた顔をしていたに違いない。咳払いもごまかしになっていない。
「意外、って顔ですね」
「…もっとこう『どうしたらいいかわからないんです』みたいな話かと思ってました」
「旅の中で、いろいろ考えたんですよ」
そうして彼女はまた遠くを見るような目になった。その目に映るのは、天の果てまで辿り着いたという偉大な冒険の日々だろうか。やがて彼女は視線を手元に戻した。
「…わたしがただの村娘なら、今度彼に会った時どうしようか、そんな事に胸を躍らせてると思います。でもね、イズミさん」
彼女と私の目が合う。青い瞳が輝きを増した。
「わたし、天の果てに辿り着きました。信じられないもの、たくさん見ました。…それでも、まだこの星には、世界には、わたしの知らないものがたくさんあるんです!わたし、それを見たいんです。なによりも!」
彼女は身を乗り出し、太陽のように熱っぽく語った。穏やかで優しげな顔の奥から情熱が噴き出していた。一息に喋ってふと我に返り、彼女は改めて椅子に座った。
「…そうして気付けば、他のことは後回し」
彼女はちらりと離れた場所のソファとローテーブルに目をやる。乱雑に散らかった大量の書類。それは未だ冒険の傷が癒え切らず静養を余儀無くされている彼女が、あちこちから取り寄せた調査書類だ。彼女はもう、次を見据えているのだ。
「可愛げのない女でしょう」
「でも、テオドアは喜ぶでしょうね」
「なんだか癪なので、まだ教えてあげません。だから、ヒミツでお願いしますね」
「約束しますよ」
にこり、と彼女は笑った。ただの村娘ではないと自分で言っておきながら、屈託ないその笑顔はどこにでもいる少女だった。これでよく可愛げがないと言えるもんだ。私は焼菓子を取り、口に運ぶ。口の中に甘みが広がる。ソフィアの暖かな告白を反芻する。胸の中にも温かく甘い気持ちが広がっていった。だけど、それを堰き止める小さな苦味が、確かにあった。
「イズミさん?」
私は俯き、角を掻いた。彼女の蒼い目を見ることができない。言葉に出来ず、無視も出来ない苦味。なんで、なんで私が動揺してるの。なんで。
わたしは勢いよく席を立った。
「ソフィアさん」
「はい」
「今日の運動、もうしました?」
「まだですよ」
「ちょっと、付き合ってくれませんか」
「いいですよ。お手柔らかに」
彼女の顔を見ないまま、私は木刀を手に庭に出た。
◆◆◆
木刀がぶつかる乾いた音がゴブレットビュートの街並みに響く。静養していると言っても、彼女の日常生活には何の問題もない。命を削るような冒険にはまだ出掛けられないだけだ。だから、私の全力を叩きつけることに問題はなかった。何せ彼女は笑顔を絶やさず、私の剣戟全てを受け流しているのだから。
連撃の中で練り上げた功を刀に込める。一歩下り、存在しない鞘を思い描く。高めた功を剣気と成し、刹那の一閃に全てを賭けた。木刀は当たり前のように空を切り、柔和な笑顔の英雄は吐息がかかるほど間合いを詰めてきた。そして世界は回転し、私は芝の上に寝かされていた。
「最後の一閃、びっくりしました。わたしが編み出した動きとそっくりで」
身を起こすと、彼女は庭に据え付けられた木人の前にいた。
「せっかくなので、お見せします」
そういうと彼女は剣気を立ち昇らせた。その圧力だけで芝が波打つ。次の瞬間、閃光が二筋走ったかと思うと、木人はX字上に斬り裂かれ、崩れ去った。木刀で、木人を。
「どうですか?波を切るようなイメージで放つので…波切りと名付けました。ちょっと、安直ですかね?」
「…いえそんな事は。というか、全く太刀筋が追えませんでした」
本当に、欠片も見えなかった。見えなかったけど、あれは「返し」まで入れている。私からすれば全身全霊の一撃なのに、なおも続け様に。参ったな。わかってたけど、あなたは強すぎる。…テオドア、あんた、ほんとにやっていける?…いや、大きなお世話か。
立ち上がり、息を整える。私の淀んだ気持ちは、流れた汗と共に晴れた気がする。おそらく、きっと。
「むむむ…じゃあもう少しゆっくりと解説を…」
隣の木人で再び奥義を披露しようとした彼女の体が、不意に揺らいだ。瞬間、私は思い切り踏み込み、彼女の元へ駆け寄る。間一髪、私の腕が転倒事故を阻止した。腕に抱かれた彼女は目をぱちぱちと瞬かせている。安堵の後、一気に自己嫌悪が湧いてきた。何が問題ない、だ。静養してる人間に、私は。
「…申し訳ありません」
唇を噛む私に、彼女は首を振り、答える。
「…ちょっと調子に乗っちゃいました。ありがとう、イズミさん」
彼女の細い指が私の頬に触れる。
「いつも気遣ってくれて、感謝しています」
「マスターを気遣うのは…リテイナーの務めです」
リテイナー、そう、私は彼女のリテイナーだ。
星を救った英雄を支える、従者の一人。
今や世界で数人の、選ばれた立場。
この娘に出会って、私は変われた。このまま、光り輝くこの娘の側で照らされる人生も、きっと悪くないはずだ。
私は彼女を抱き起こした。彼女は問題なく歩き出す。
「今日はもう、部屋に戻りましょう」
そうして彼女は背を向けて、ハウスの玄関へ戻っていく。私も自然とそれについていく。
…この娘は、いつかまた走り出す。
世界を、私を置いて、誰も知らないところまで。
私はその帰りを、ただひたすら待つ。
…違うなぁ、やっぱり。
私は不意に立ち止まった。
…追いついて、横に並びたい。
出来ることなら、追い越したいんだ。あなたを。
「ソフィアさん」
「なんですか?」
私の呼びかけに、彼女が振り返る。
私はテオドアみたいにはなれない。
…でも、負けたくないんだよ。
「次の冒険、どこに行かれるんですか」
「…まだ秘密ですよ」
「ですよね。じゃあ、その秘密の場所、私が先に見つけてみせます」
ざぁっ、と風が吹いた。
あぁ、言っちゃった。
「ずいぶん急ですね。でも…」
英雄は、少し思案した後不敵な笑みを返してきた。
「…見つけるのは、わたしですよ?」
「…私だって、冒険者ですから」
英雄は、ぱちぱちと瞬きした後、満面の笑みを浮かべた。
「イズミさん、すっごくいい顔してます」
「そう…ですか」
「えぇ、お互い、がんばりましょう」
英雄はそういうと、今度こそ扉を開けて家の中に戻っていった。
肌寒い風が吹いた。
あぁ、私、また調子に乗って。
まだ仇も探せてないのに。
でも、良いんだ。希望さえ胸にあれば、なんだって出来るんでしょう?今は遠いその背中、いつか追いついてやるんだ。
扉を開けて、家の中に入る。彼女は変わらぬ笑顔でそこにいた。私は紅茶を淹れなおしに、キッチンへ向かった。
「ソフィちゃ〜ん!具合どう?!」
「リリアちゃん、ごきげんよう!」
突然訪問してきた桃色の髪の娘とソフィアは手を取ってはしゃぐ。
…そうだ、この娘もいたわ。手強いなぁ。
【了】
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