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発信の世紀: 私たちは、私たちの言葉に何を乗せるのか

“It's easy to know what you are against, but quite another to know what you are for.” — Damien O’Donovan (The Wind That Shakes The Barley)

9.11から20年が過ぎました。
アメリカ同時多発テロは、多分、自分にとって、世界史に残るような事件で記憶に残っている一番最初の出来事です。

「21世紀は2001年1月1日ではなく、9月11日に始まった」

9.11は、今日にまで見られる情報発信と感情の増幅・分断・そして連帯の、一つの起点となったのだと思います。

時の針を世界大戦まで戻します。
H. G. ウェルズは、その著書『解放された世界』で、国家による主権保持を放棄し「国際連盟」により統治された世界を描きました。
ウェルズは原爆の危険性への警鐘・戦争の根絶・人権宣言の草稿など平和を希求した作家であり社会活動家でしたが、彼が構想した世界政府下の人々は皆、協働のため英語を基調とした共通言語を話すことを選択しました。

ウェルズの求めた「国のない世界」はまだ訪れていませんが、新自由主義とグローバリズムに影響された社会では、英語を共通言語として採用する言説が実際に広まっています。
実態としても、英語を公用語とする試みは、未然にせよ已然にせよ未完にせよ、国家・企業・個人など、さまざまな主体が企図するところです。
この背景には、「共通語である (と信じられている) 英語を話せば、世界と・世界中の人と繋がることができる」という信念があるのでしょう。

しかし、果たして共通語さえあれば、私たちは他者と真の意味で繋がることができるのでしょうか。
「英語が世界を繋げる」という言説について、言語学者の久保田竜子*は、新自由主義のイデオロギーが特権化するグローバルコミュニケーションのための英語の実用的利便性は、必ずしもポジティブなコミュニケーションに結びつくものではないと主張します。
その上で、より建設的なグローバルコミュニケーションを確立するために、話者のポジティブな気質を育てること、そしてそれ以上に、新自由主義的な今の社会でそもそもどのような言語教育や言語学習を行うべきか、その目的やビジョンをもう一度描くことが重要だと説きました。

日本語を母国語とする人は、英語を使えば、恐らく日本人口の10倍くらいの人に自分の声を届けられるようになります。
けれども、その声で誰かに対する憎しみを叫んだら、誰かに対する嫌悪を口にしたら、誰かに対する否定を囁いたら、届いた言葉はむしろ拒絶と分断の因となるでしょう。

同じことは、何語についても言えるのだと思います。
オサマ・ビンラディンは、9.11後に始まったアメリカの攻撃に合わせて、イスラム世界に信仰を守るための戦いを扇動しました。
9.11の直後、米国メディアはテロの脅威を報道し続け、視聴者の恐怖と憎しみを増幅しました。
文学者・思想家のエドワード・サイードは、その時期の報道からすでにこの増幅を指摘していたようです。
私たちも、SNSに何かを呟く時、ニュース記事にコメントをするとき、いつの間にか分断を助長し、ヘイトを増大するような言葉を拡散していないでしょうか。

他方、言葉は本当に人を繋ぎ、連帯させる可能性も秘めています。
古今の偉人のスピーチ、LGBTの権利獲得の黎明期に起こった “it gets Better” ムーブメント、世界に困難を乗り越える希望を届けたPharrell Williamsの楽曲『Happy』。
これらの例に触れた時、言葉はまた絆や勇気も増幅できるのだと感じます。

しかし、「アラブの春」の後の国々が混迷を極めたように、良い意図を束ねた連帯が、結果として新たな分断を招いてしまうことがあるのも事実です。
畢竟、善意がぶつかるのは、悪意ではなく別の善意に過ぎないのかもしれません。
そして、善意が場面に応じていくつもの顔を持つ以上、たとえひとつの善意で誰かと重なることができても、別の場所ではその誰かと衝突することもあるのでしょう。

だからこそ、繋がるためには、言葉を届けるだけでなく、受け取ることが必要なのだと信じます。
相手の言葉の裏にある価値観に耳を傾けること、汲み取れなければ尋ねること、そして、そんな想像力を膨らませながら、自分が届ける言葉が相手にどんな意味を持つのかを発する前に吟味すること。
ただ思ったことを届けるだけならば簡単です。
そこで止まらず、主体的で粘り強い聞き手になること、そして聞き手の立場で語れることが、「言葉で繋がる」ということなのではないでしょうか。

スマトラ沖地震を契機に生み出されたYoutube、そして時を同じくしてこの世に誕生したFacebookやTwitterなどのSNS。
誰もが発信者となった21世紀、誰でも自分の言葉を容易に届けることができます。
加えて、英語が神話的に共通言語になりつつあると思われている今、自分の母国語以上の人口に発信することもできるようになりました。
5Gで動画通信が安価で高速になれば、視覚を組み合わせたコミュニケーションがさらに当たり前になるかもしれません。
言葉が増幅する感情は、憎悪であれ幸福であれ、より大きいものになるでしょう。
そんな時代に、一方的に届けるだけの発信者では、真の意味で他者と・世界と「繋がる」ことはできないはずです。
9.11に象徴される分断と攻撃を増幅するコミュニケーションを断ち切り、希望と勇気膨らむコミュニケーションを継承するためにも、私たちはもっと相手を受け取ること、真摯な聞き手になることを考えなければならないのではないでしょうか。
何故なら、一見敵対しているその人を突き動かしているのも、また別の善意だからかもしれないからです。

“It's easy to know what you are against, but quite another to know what you are for.”

敵を見つけるのは簡単。
けれども、何のために自分は在るのかに気づき、忘れないことは難しい。

私たちはそもそも、何のために発信するのか。
対立する善意を乗り越え、真に「繋がる」ことはできるのか。
発信手段が革新を重ねる21世紀のコミュニケーションに、新たなビジョンを描き直す必要があるのかもしれません。

2021年9月11日、NHK 新・映像の世紀を見直し、そんなことを思いました。


| NHK 新・映像の世紀
https://www.nhk.or.jp/special/eizo/archive?release=6
https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2016068360SA000/?spg=P201400121100000

| The Wind That Shakes The Barley
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Wind_That_Shakes_the_Barley_(film)

*Kubota Ryuko (2016). Neoliberal paradoxes of language learning: xenophobia and international communication. Journal of Multilingual and Multicultural Development, 37(5), pp. 467-480.

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