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普通の人生を生きる

感じ方は一人一人違う

昨日は、雨が朝から降り急に冷え込みました。先週はまだ気温も暖かく、半そでで過ごしていたのですが、昨日はセーターに上着を着こんで、冬の恰好で出かけました。

この最近は急に冷え込み、徐々に紅葉が美しくもなりながら、厳しい寒さがどんどん増えていくのでしょう。最近は陽性者の数が激減していますが、おそらくインフルエンザか増える時期にはまた増加するのではないかと考えてしまいます。

寒さと乾燥が手伝って、体調により気を付けないといけない時期になってきたと感じるところです。

私たちの住む地球は、太陽を公転しているので、太陽から地球が離れている期間は寒さに耐えなければならないのはしょうがないことです。

また、住んでいる地域によって、赤道付近なのか、温暖湿潤気候なのか、亜熱帯気候なのかで全く状況は変わってきます。

ヨーロッパと日本とでは、気候の差が激しいため、そこに生息している動植物が異なります。よってヨーロッパ人と日本人とでは食生活が異なり生活様式に差が生まれるので、遺伝子も異なります。

今回のコロナウィルスは、ヨーロッパやアメリカの方が猛威を振るっているということは、まだ私たちには分からない遺伝子レベルでの違いが要因になっていると思われます。

身体というレベルでも地球上で住んでいる場所の違いで、肌の色や骨格など様々な異なりが表現されています。

まして、文化、宗教、言語、価値観などという心を構成する情報空間の要因では、感じ方や考え方の一人一人異なる範囲と量は、指数関数的に増えます。

例えば、肉食や採食、信仰の有無、人生観は人種や国籍以上に一人一人ことなり、家族や夫婦、兄弟のレベルでも全く違う様相を呈します。

コロナウィルスという共通の要因で、人種によって耐性が異なります。これは物理的な身体においてのウィルス耐性の差です。一方、心という情報的な耐性においては、もっと格段に個人差が表れてきます。

つまり、一人一人の感じ方や気分というものは、全く異なることが自然なのです。

地球の気候を、人間の感情や気分、気質に例えてみる

アフリカやアジア、ヨーロッパ、北極圏にいる人々は気候によって、肌を露出した衣服を着たり、反対に着込んだりと、住んでいる生活スタイルが異なるのは当たり前です。それはまた季節の変化によっても生活様式は異なります。

住んでいる場所と時期によって、当然体感が全く変わります。

物理的な座標が、その住民の生活スタイルを規定すると言っていいでしょう。その物理的な座標(例:西暦では同じ10月という時期でもアフリカとロシアでは全く異なる)が生活習慣を形作り、食生活、文化、慣習、宗教、価値観に影響します。

人間は生まれ育った場所や両親で、情報的な座標が存在します。

例えば日本という文化と慣習、価値観があり、さらに家系から受け継がれている習慣や考え方というものが一人一人異なります。

物理的な座標の要素は目に見えるものなので分かりやすいのですが、情報的な座標については、目に見えず、かつ多様なので分かりづらいのです。

先ほど言ったように、厳密に言えば一人一人の持つ「座標」が異なるにもかかわらず、当本人がその情報的な座標について存在さえも知らないことが多いものです。

そうすると、大まかな価値観や考えを基準に、自分の生活を適合させようとします。別の言い方をすると、常識や固定観念、その場の空気の流れに合わせてしまうということです。

昔ならば、それで生存を維持する確率を上げる要因になっていましたが、現在は情報化社会で価値観の変動が激しいため、何が正解か不正解か全く見えなくなっています。そうなると、個を主として生きることが求められる機会が増えてきます。

そういうわけで、何か求められているものに合わせるという、過去からの慣習は、上手く生きていくにあたりかえって足を引っ張っています。

これはとても危険なことです。

何故ならば、アフリカに住んでいる人が自分の生まれ育った気候や地域の慣習を無視して、いきなりロシアに移り住むと、凍え死んでしまいます。そうしたときに、自分は弱い人間だ、ダメな奴だと比較して落ち込んだり自責の念を抱いてもナンセンスでしょう。

それは自分が生まれ育った物理的な座標を理解せず、他の地域の座標に適合しようとすることによる悲劇です。

この例えの様に、心の中の座標も一人一人異なり、そこに優劣はありません。ある心の座標ー考え方や価値観、宗教や信念―に自分を合わせようとして失敗し、自分を責めてしまうことで様々な悩みを持っている人々がとて多くいます。

その背景には、価値観や考え方には優劣があるので、より優れた価値観や考え方が、劣った考えや価値観にとってかわられる必要があるという昔からの土壌があるのも要因の一つだと思えます。

この悲劇を無くすには、まず自分がどのような心の座標を持っているのか、ということをしること。つまり「私とは何か?」に集約される探求を行うことから始まります。

そうでなければ外側に絶対的な価値観や答えがあると思い込み、自分探しを外側に求めることを永遠と続けてしまいます。

自分の心の座標を知った後は普通に過ごす

そして、ある程度自分の心の座標が分かれば、あとは「普通に過ごす」ことです。

「普通に過ごす」とは、物理的な座標で言えば夏になると、衣替えをし、夏に適した生活スタイルをし、秋になると冬に備える準備をし、冬には冬の行うことをする、というように、

気分や感情という状態も、気候の天気のように適切なことが適切に起こっている時期だと割り切るということかと思います。

気分や感情は、物理座標の気候や天気と同じで、誰もそれをコントロールすることはできません。

理由はわからず雨や風、雪、時には雷や嵐が起こります。宇宙衛星「ひまわり」の観測で、低気圧や高気圧の配置のバランスで、そのような天候現象が起こっているということはわかるかもしれません。しかし、何故それが起こっているのかということの原因や、理由、そしてコントロールは誰もできません。

天候については、私たちはいつも古来から雨ごいや神頼み、気象兵器などを用いてコントロールしようとしてきましたが、結果は散々なものでした。

コントロールできたかのように見えて、それは錯覚だったり、後に大きなしっぺ返しが来たりという連続でしかありません。

私たちは、ただそれを知り、受け入れるしかありません。

気分や感情も天候と同じものです。大雨や嵐、という激しく恐ろしい時期もありますが、それは地球というダイナミックな動きの中で生じる必然的な現象であり、それを無くすことはできません。

私たちは、それらを受け入れることしかできません。

しかし、それは奴隷のように従属するというわけではありません。

雨が降っている、雪が降っているという現象があったとしても明日のデートの約束を中止にするでしょうか!?

中止にしたとしても、別日に予定を立てればよいわけです。

むしろ雨風というものは存在し、事前にある程度予想できれば、雨具を用意したりデートを屋内に変更したりと「普通に対応」すればよいだけです。

天候はデートの演出ではありますが、主ではありません。いくら快晴で晴れ渡っていても、上手くいくデートもあればそうでない時もあります。逆に雨ということが事をそうして、デートが思ったよりも上手くいくかもしれません。

天候は条件にすぎないのです。

「普通にする」ということは「複雑ではなくシンプルに」と解釈してください。




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