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「許し」と「赦し」ーその1ー

最近ある気になる話を目にしました。内容は宗教的な話で、「許し」がテーマの話でした。

『死に瀕しているある女性の枕元に死神が立っていました。

女性は「ああ、私もこれでやっと神様の元に行ける。」

と喜びます。それを聞いた死神は、

「あなたはなぜ自分が神の元にいけると確信しているのですか?」

と伺います。

女性は「私は生まれた時から不幸でした。母親は私が生まれてすぐに亡くなったので、顔も知りません。父親は、私の顔を見ては『役立たず、穀潰し!」と罵っていました。よく暴力を私に振るっていたので、その時の傷が今でも顔に残っています。

家は貧しかったので、学校での教材を買うお金がありませんでした。友達はできず、いじめられてばかりいました。

結婚すると、夫は働かず、毎日酒を飲み、私に暴力を振るいました。

そんな私の心の拠り所は、神様にお祈りをする事でした。

時間を見つけては、教会に行き、お祈りを捧げていました。また、少ないながらも貧しい子ども達へや、難病で苦しんでいる人々にも寄付もしていました。

そんな矢先に、私自身が病に犯され、こうして死の淵に立つことになりました。

私はこの瞬間を、何年も何十年も待ち続けました。そしていよいよお迎えが来ました。

さあどうぞ、私を神様のもとに連れて行ってください。」

と女性は感極まった表情で話を終えました。目には希望に溢れています。

すると死神は言いました。

「残念ながらあなたは神様のところには行けませんよ。神様のところに必要のは『許し』です。あなたは、自分の父親や夫、そして自分境遇や人生を許していません。

許していないとまた、現生に戻って許すまで人生を積みかさなければならないのです。許しがないと、あなたの心には恨みや怒り、悲しみの感情が残ったままになってしまいます。それだと神様の王国には入れないのです。」

...このような内容のお話でした。この話は許しをテーマにした話で、人間は許すことが大切であるということを言いたいのだと思います。

一見よくある宗教の道徳的な話題のようにも思え、なんとなく厳しくも良い話だな...と思うかもしれません。

しかし私はこの話を読んで、私は違和感を感じます。

上記のような死神の言い分だと多くの人は、受け継がれる巨大な憎しみや悲しみを歯を食いしばって「許さなければならない」と捉えるのではないでしょか?

そして、そんなに簡単に許すことが出来るのでしょうか?

許す方法も何も女性に知らせないまま、その女性を放って置くことに、冷たさや無責任さを感じてしまいます。

まあ、死神だからそんなものなのかもしれませんが・・・。

そんな解説を死神から人間に向けられても、まだ算数しか分からない小学生に、「数の概念が分かるなら、この数学の難問解けるだろう!?」と突っぱねる、愚かな教育者のような印象を持ちました。

「許し」

「許し」とは、グーグルで調べてみると、

「許すこと。
許可。認可。また芸道で、師匠から弟子(でし)に与える免許。
罪・とがを免ずること。赦免。「―を請う」

とあります。

このレベルの許しとは、人間が行った行為や言動について、人間自身が謝罪したり、謝罪を受け入れる水準を指しています。

子どもが親に向かって「お前」と呼び捨てにする、仕事上で求められている役割や機能が果たせない、夫婦関係や、交友関係で信頼を裏切る行為があった・・・などなど、

親子関係、夫婦関係、友人関係、仕事の関係等、人間が創った社会の中での様々な関係性の中で、それぞれ求められる役割に反した言動をとる時に、間違った方が謝罪をし、それに対して「許す」という行動が生まれます。

人間が創った社会という舞台の中で、それぞれに役割があり、その役割をこなすことで、人生という物語が生まれます。そしてそれぞれの人生の物語が絡み合って社会や文明が生まれ、私たちはそれをいつの間にか無意識に絶対的な「現実」と認識して生きています。

その物語の中で生まれる過ちにに対して「許し」という行為が生まれます。

何か取引をしようとしてしまう無意識の反応はホメオスタシスで、単なる生理現象

冒頭で紹介した物語の女性は不遇な環境の中で、唯一の救いが死後、神様の下に旅立つというかすかな希望でした。神様の下で、天国で安らかに暮らすことを夢想し、彼女は、貧しい子供や不遇な状況の人々に、苦しい経済状況ながらも寄付をします。

それは彼女の死後に天国に行き、神様のもとで暮らすための、意識的か無意識的に行われた「取引」とも言えます。

要するに、何の罪も犯していない彼女は、不遇の環境で生まれ育ち、そのまま不幸のまま死んでしまうという一生に、強い不公平さを感じ、自分の生前の不幸に見合う幸福を死後の世界に求め、取引をしようとしているということ死神は暗に言いたいのでしょう。

そして死後の世界の幸福をより確定的にするために、出来る限り善行を積んでいたというわけです。

つまり彼女の施しや寄付は、無条件からの愛ではなく、条件愛であったと・・・。

だからいよいよ死期が迫ったときに、彼女は天国への報酬を受けとる期待に胸が躍っていたわけです。

これまで支払った分の、年金を受け取る番だという心境かもしれません。

ここまで露骨に話を描くと、彼女があさましい人間のように描かれてしまいますが、実際人間とは「肉体レベルにおいては」そのような生き物です。

私はそのような人間の姿があさましいとも、間違っているとも、未熟だとも思いません。

彼女のような境遇に、ある程度似通った状況であれば殆ど全ての人間が程度の差はあれ、同じような心理的なメカニズムが働きます。

もしその姿が間違っている、まだまだ未熟だ、という感覚が芽生えるのは、本当に絶望を味わった経験がないのか、

もしくはその女性の身になって考えたり感じることをしていないか、

それとも洗脳的に、紋切り型に「神との関係性とはそういうものだ」と思い込んでいるのかどれかではないでしょうか。

誰でも海でおぼれたら、パニックになってもがき苦しむのが自然な反応で、おぼれて死にかけている時に、聖人のように笑みを浮かべて落ち着いていることはあり得ません。それはファンタジーです。

苦しい時に助けを求める現象は、「暑ければ体温を一定に保つために汗が出る。寒ければ体温を上げるために体が震える」というホメオスタシスの原理であり、単なる生理現象です。

善か悪か、成熟しているのか、未熟なのか、正のか間違っているのか、というわけではありません。

このような話を見て、「天国に行くために取引をしている自分がどこかにいる・・・」と罪悪感を感じたり、自己肯定感を下げたりするのはナンセンスです。

そのような罪悪感や自己卑下感が、帰って現生に自身を縛り付け、繰り返される輪廻の輪から抜け出られなくなってしまいます。

このような死神の言動は、「現生という無限ループの地獄に縛り付けておくための罠なのだろうか!?」と私は勘ぐりたくなってしまいます。

・・・その2に続く



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