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教えることへの違和感

 学校教育で行われていることを動詞で表すならば教えると答える人がほとんどだろう。育てるという答えも考えられる。
  しかし私にとってはいずれの答えにも違和感を覚える。この言葉たちがもつ特性によるものが原因だ。”話す”や”食べる”のように明確な行動を示さないこと、対等な立場の相手には使われないこと、世界中にあるとは限らない概念であること、、、”教育”という言葉自体が”国家”と同じように具体物を持たないため非常に捉えにくい存在である。そのため今回の記事では学校での授業を中心に教えるという行為について考えていきたい。

教育者と被教育者

教えるという行為を成り立たせるためには、教育者(教師)と被教育者(児童生徒)が必要である。より多くの知識を持つものがそれを持たざる者へと言葉や実演を通して伝えていく行為が教えることである。この前提に立つならば教師はどんな質問にも答えなければならないし、誰にでもわかるような説明をしなければならない。しかし学校教育を受けたことがある人なら知っているように教師にもわからないことはあるし、理解していてもそれをわかりやすく伝えられるとは限らない。現実的には教育者と被教育者という前提を保つことは難しいと言える。

教えたら終わりなのか

授業内容を生徒が理解できているか日常的に確認する教師は少ない。たとえ小テストが実施されてもそこでいい点数を取るのは大抵塾通いができる一部の生徒が既習事項をアウトプットしたのにすぎない。とはいえ授業内容が伝わったのかを明確にせず授業を続けることは、教えることが文字通り教えることになっていることを意味するのではなかろうか。教えた後の責任は教師ではなく教えられた生徒側にあるとさえ感じてしまう。


教師という職

 教師として学校現場で働くために教えることは必須だ。最近は子供たちの自発的な興味関心に合わせて学習を進めることに重点が置かれた探求の授業なども増えてきてはいるが、それでも文字や計算など基本的なことを学ぶにあたり教師が教える場面は必要になるだろう。
 私にとって前述した教えるという行為そのものに対する懸念を解消できない限り教鞭をとることは避けたいと考えている。

 


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