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教師教育について

 今日はオンラインで、「大学における教員養成の未来『グランドデザイン』をめぐって」というシンポジウムに参加した。

 概要としては、”教職=自律的でクリエイティブな高度専門職”と定義し、医学部や薬学部のような6年制の資格を設けることで教師の質や社会的地位を高めることの提言とそれに対する複数立場からの意見及び討論であった。

 特に印象的だったことを3つ記しておきたい。
 1つ目は、提言の中でも触れられているが教職の専門性に関して。確かに高校の進路指導において、「教育学部に進学したい」と話すと「教員免許はほかの学部でも取れるからほかの学部がいいのでは」と提案されたことが何度もあった。確かにそれも一つの選択肢ではあるが、私は教育を学問として学びたいと思ったのだ。少し話がそれてしまったが、教員免許を取れば教壇に立てるという考えは教育の質の低下に繋がりかねないと思う。何よりこの言葉がけによって、「教員は誰でもなれる」と誤認している人の多いことは言うまでもない。大人になって数学や古典について何かを論じる人は少数派なのに、教育となるとほとんどの人があたかも教育の専門家であるように持論を語り出す場面にしばしば遭遇する。これが教員の社会的地位の向上をあ跨げているように思えてならない。
 2つ目は、コンテンツ主義の脱却について。何も知識のない生徒から見ると先生は何でも知っているように見えるし当然ながら引き出しの多い先生のほうが授業もわかりやすいことが多い。しかし大学の授業は知識を詰め込む場所ではないという話だった。さらに高次な次元の学び、すなわちそれぞれの学問の仕方や考え方を学ぶことが大切だという主張だ。確かに高校までの学びはいかに理解するかにこだわっているため、教師の考え方によって学習者の思考が偏ってしまうだろう。この考え方は4月からの大学生活でも生かしていきたい。
 3つ目は、教育課題に対して1対1で対処しないことのすすめ。今の世の中を見ると、”不登校だから学校以外の居場所を作ろう”や”ICT教材を家に持って帰らせると家でゲームばかりするから学校に預けさせよう”な対応が目立つ。もちろんこのような支援によって助かっている人も少なくないだろう。しか大学までもがこのような対応を求められているのかというとそれは違うのではないかという話だ。不登校の概念がない国もある中でなぜ日本には不登校がありその歴史はどのようなものであるのかを研究したり、学校と家庭の関係について家庭教育の在り方の変化から調査したり、もっと学問的な視点から社会をとらえるのが大学の役割ではないかということだ。

 多少解釈が間違っているところもあるかもしれないがそこは大目に見てほしい。無料でこれだけいろいろなことが学べる機会があるのってすごいことだと思う。教育哲学はほとんど理解できずせっかくのお話が理解できなかったので、まずはライルの傾向性やジョン・キーツのNegative Capabilityについて学んでいきたい。

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